ひとりしりとり「嘘」

「軍隊式研修」→「嘘」

今朝ニュースを見ていたら、つい先日話題を呼んだSTAC細胞の論文の中に使われていた写真が2011年に使われたものと完全に一致していて、リーダーの小保方さんと共同研究をしていた若山さんという方が論文の取り下げを提案している、というニュースが流れていた。

またもう一方では、現代のベートーヴェンが実はゴーストライターを使っていましたという問題で、日本のお茶の間はグラサンロン毛の怪しげなおじさんが断髪し普通のおじさんになる瞬間を目撃している。

さらに日常的には、SNSへの投稿で注目を浴びたい誰かや、ページへのアクセスを伸ばしたい誰かが適当で魅力的な嘘を付くものだから、「ネットの情報は一瞥して信用してはならぬぞう」という考え方がようやく定着してきている。

とかくこの世には嘘が多い。それがテレビや雑誌などに取り上げられると、何せメシの種である。面白可笑しく弄くり回されていて、どこからどこまでが事実であるのか分からない。

オオカミ少年でなくとも、人の言う事は基本的には信用ならない。毎日嘘を付いていれば嘘つきだと言われるが、成功の為には苦難が必須と考えている人にとって「楽しく輝いて成功する」という言葉は、その真意の程を差し置いて嘘性を持つ。

けれど、実はそんなことはどうでもいいんである。例えば、まだ現代のベートヴェンであった頃の佐村河内氏の大ファンであった方がゴーストライターの存在を知らずに寿命を全うされたからといって、それは本当に不幸だろうか、ということだ。

事実は常に主観の中にある。人の数だけ事実がある。

「これじゃあの人があまりにも不憫だ」

というのは、あくまで他人の主観であって本人の主観ではない。逆に、自分の主観に入ってこない事実は、そもそも存在しないものと同じである。だから、誰がどんな嘘を付いていた、ということは、実はその論争自体がナンセンスなんである。

その上でもやはり情報リテラシー意識を高く持つ必要があるのは、数ある情報の中から自分にとっての事実を見つけ出すためである。大切なのは、その情報が本当か嘘かではなく、自分にとって良いものかどうかを判断する感性を養うことだ。

半年ほど前のことだ。

僕が楽しみにしていたプッチンプリンを食べようと冷蔵庫を空けたところ、それの消失が確認された。冷凍庫の中にもソースのキャップの中にもレタスの葉の間にも無い。

ふとリビングに目をやると、彼女様が幸せそうにプッチンプリンを食べている。これまで僕と一緒にいた時間の中で、最も幸せそうである。

「あの」

僕は慎重に言葉を選んで聞いた。

僕「僕のプッチンプリンを知りませんか」

彼女様「しりませんプッチン」

楽しみにしていたプッチンプリンは永遠に失われた。彼女様の発言が嘘であったのかどうかは、もはやどうでも良い。何より、彼女様の視線から「ちょっと気ィ効かせてコーヒーくらい淹れろや」という意図を汲み取ることの方が、その時は重要であったのだ。

嘘を嘘だと指摘したからといってどうなると言うのか。

インスタントコーヒーをスプーンですくいながら、プッチンプリンは買ったスーパーを出たところで食べ切るべきるものだと、僕は自分の中の事実を新たにした。

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