精神と自意識と美意識の仕組みに気付いたら土下座するしかなくなった。

Facebookで繋がっている物書きの方が

「精神でなくて、何で文章を書くというのか」

ということを仰っていて、まさしくと膝を打った。僕自身が色々なところで色々な文章を書くのだけど、その都度、自分の精神世界を背負っているように感じている部分があったのである。

もちろん、その方の言う精神の感覚と、僕の言う精神の感覚は、似て非なるものである。しかしその違いがあるからといって、どうということはない。大切なことは、僕が自分の精神を感じているかということであり、あなたが自分の精神を感じているか、ということである。

人は驚くほどに自分のことを理解していない。自分がやりたいことが分からない、という夢の不在を嘆く声は、あらゆる場所から聞こえてくる。音楽という自己表現の世界においても、自分のやりたいことが分からずに苦しんでいる人が大勢いる。それはつまり、例えば今回の話であれば執筆であるとか、音楽であれば作詞や演奏といった行動そのものは、”やりたいこと”にはなり得ないということである。

人にとってやりたいことというのは、大変に抽象的である。

それは僕の場合であれば、音楽でハッピーになる日本を作りたい、文化で戦争が止まる世界を作りたい。というようなことだ。

辛く苦しい毎日を、重き荷を背負って行くものと諦めて生きている方が自分を許してあげれらるようなきっかけになりたい。そうして輝くその方の生き様がいくつも集まって、もっと良い世の中を動かして欲しい。

僕にとっての演奏とは、そのための方法である。

そしてその方法にもやはり、仏教で言うところの仏性が備わっている。簡単に言うと、美しいかどうか、ということである。

良い楽曲であるか。
良い演奏であるか。
良い音であるか。
良い場所であるか。
良い空気であるか。
良い見た目であるか。
エトセトラエトセトラ・・・

この美意識というものは表現を作り上げる上で必ず必要な美の基準である。この基準が高ければ高いほど、生み出される表現は高い水準に到達する。それは例えば、偶然テレビに映った調子の良い学生が、面白いことをしているつもりでもやはり素人にしか見えない、それに似ている。プロのタレントや芸人は、テレビに映るという行為に対して高い美意識を持っているのである。

話を戻そう。精神は、やりたいことに通じる。究極的に私がどう感じているか、ということに反する行為は、どれだけ理にかなっていても全力で行動に移せない。心とは、精神とは、我々が普段感じる以上に深いところに居る。そして我々はそれを時たま感じることがあったとしても、表層の判断が正しいと勘違いをして、あるいは、周りの者が皆表層的な判断をしているからという理由で、封じ込める。

精神は、自意識ではない。自意識は精神を封じ込めるために埋め込まれたプロテクトである。そのプロテクトを解いて初めて、人はようやく、自分と向き合うことができるのである。

僕はこのことに気付き、いてもたってもいられず、隣にいた彼女様に話し掛けた。

僕「人はもっと自分と向き合うべきだ。」

彼女様「お前もこの前私から2000円借りた事実と向き合え。」

僕「その事実と向き合った結果、僕の財布には今2000円が入っていないという結論が導き出された。」

彼女様「涙出るわ。」

僕「大丈夫だ。僕はお金が無くても幸せになれる。」

彼女様「私の将来お先真っ暗っていう意味な。」

僕「そんなことはない。自分と向き合うことで、そこに明確な未来が見える。」

彼女様「それが見えたから、また電気消したねん。」

僕「何が見えたんだい?」

彼女様「お前が3000円貸してくれってすごい姿勢よく頭下げてる未来。」

人が安らぎの中で精神と向き合えるようになるには、まだ時間が掛かる。僕は土下座の準備をしながら、そんなことを思った。

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膝を打つってこういう意味じゃない。