ウェルカム・ツー・スプリング

秋と同様、には色々な二つ名がある。日本の季節感において春と秋が、夏と冬という気候のピークとピークの間の過渡期であるからだ。季節の転換に対する様々な生き物たちの適応変化が、人にとっても大きな変化をもたらすのである。

先日4月9日のことだ。僕は母とふたりで祖母の墓参りに出掛けた。

山本家は宗教観の薄い家である。特にどこを信心しているということはないのだが、とりあえずはその地域にある大きなお寺に墓を建てている。と思っていたら、祖母はそのお寺の檀家の集会に足を運び、他の方とよく色々なことをしていたらしい。家族のことでも、知らないことは多いものだ。

墓地の入口に置かれているバケツに水を張り、ひしゃくとタワシを放り込んで墓石の前に立つ。花が古くなっていた。じーちゃんはまだ来ていないらしい。墓石にひしゃくですくった水を掛けて、タワシでわっせわっせとやる。母は草を引いている。

不思議なもので、普段手を合わせるだけのお墓はなにやら漠然とした生の証明書のような印象であるのだけど、そうやって水を描けて自分の手と袖を濡らしながら磨いていると、どうにも愛着心のようなものが沸いてくる。それは夜な夜なギターをせっせと磨くようなもので、決してそこに祖母を感じるだとか、そういうことではない。ただ単に『墓』という物質的な存在が僕の手で美しくなってゆくことで、達成感と満足感が満たされるのである。

祖母はそこに居ない。祖母は、祖母を想ったその時その場所に居るのである。

そういうことを考えたり考えなかったり母に水をかけて殴られたりしながら石を磨いていると、ツルツルの石肌を静かに流れ落ちていく水の流れが少し歪む場所があることに気付いた。

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お・・・?

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あ!

カエルさんである。丸々と太ったカエルさんが、石と石の組み合いの隅にじっとうずくまっていたのである。

僕は母に水をかけ、そこにカエルさんの居たことを訴えた。母は怒り狂い、鬼のような形相でもって引っこ抜いていた雑草を僕の上着の中に詰め込んできた。

母「なんでそんな子に育ったんや!」

自分の胸に聞け。

ともあれ、カエルさんである。この時期のカエルさんは、この冬を越えて目覚めてきた越冬組である。よく見ると隣の墓石にも、別のカエルさんが同じように張り付いていらっしゃる。こんな柔らかそうな手と身体でどうやって土を掘るのか、不思議でならない。

墓掃除もひとしきりやり切って最後に残ったバケツの水を母にかけようとしたところ感付かれたため、残念な気持ちで墓石に浴びせかけた。カエルさんは少し迷惑そうにまばたきをしながら、その場で水を受け止めていた。