耳掃除とセルフイメージの無関係性。

セルフイメージという言葉がある。人間は人を分別し、ラベルを貼る生き物であるのだが、実は自分自身に対してもラベルを貼っているのである。そのラベルのことを、セルフイメージと呼ぶのだ。

自己啓発の世界では、このセルフイメージを高めよ、と言う。人は他人に対しては己の価値観に則って細やかな指摘ができるものだが、自分自身に対しては無意識無自覚の領域が多く、自分で貼ったはずのラベルが上手く見れない。ところが、このラベルをよく観察し、自分にとって都合の良いラベルに貼り替えてしまおう、というのである。耳の穴の中を自分で見てキレイに掃除しろと言われているようなものだ。

そう思っていたら、セルフイメージの刷新と耳掃除は根本的に違うということが分かった。耳掃除は耳掻きを突っ込んでホジり回さなければならないのに対し、セルフイメージの刷新は、

 

「俺はこうだ」

 

と自分に言い聞かせるだけで良いと言うのである。確かに電車の中などで隣に座ったキレイなお姉さんが

 

「私の耳はこれからキレイになるぞ」

 

と呟くや否やその耳穴から大量の耳垢がビュンビュン飛び出してきたら、おそらく一生もののトラウマになる。耳掃除とセルフイメージの刷新が別物で本当によかった。

といったところまでの話を詰めて我が身を振り返ったところ、僕がよく

 

「僕はクールなイケメン」

 

と言っているのは、このセルフイメージの刷新に関係する非常に意識の高い行為なのではないか、ということに気付いた。いつごろから言い出したのかは記憶に無いが、少なくとも5年前の時点では言っていたはずである。ということは、この5年間クールなイケメンであるといつセルフイメージを育み続けてきた僕は、いよいよ本格的にクールなイケメンであると言えるのではないか。おお、なんだかそんな気がしてきた。おもむろに語尾にイケメンと付けても許されるのではないかと思うほどだイケメン。

こうしてセルフイメージを高めた僕は大変な自信を胸に抱き、対したセルフイメージを持っていない彼女を諭してやらねばなるまいと、施しの精神で電話を掛けた。

 

僕「もしもし、クールなイケメンですが」

彼女「すいません間違えました」

僕「電話を掛けたのは僕だろうイケメン」

彼女「何その殺意に直接響いてくる語尾」

僕「セルフイメージを高めたのだ」

彼女「事実も高めろ」

僕「セルフイメージが高まると事実も高まるのだ」

彼女「耳くそが出ていくイメージをしても出ていかんけど」

僕「耳掃除とセルフイメージは別物だ」

彼女「耳掃除の役にも立たんのにどう役立てるの」

僕「ええと、アレだ、なんか自信が付くんだ」

彼女「井戸の中のカエルになれるっていうことか?」

僕「そこまで言うのなら、君は自分のことをどう思っているんだ」

彼女「私は美人に決まってるやんか。見る目の無い世間が不憫やわ」

 

もう少し真っ当なセルフイメージを持ってもらいたいものだ。

 

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噂のクールなイケメンがこちら

都知事選をネットとテレビで見ていて感じた「平等」の意味。

舛添さんが都知事に就任したというニュースを聞いて、酷く驚いた。というのも、TwitterやFacebookに舛添さんのネガティブな情報がわんさと流れていたからである。

 

・度量が狭い。
・被災者を馬鹿にしている。
・演説に人が集まらない。

 

などなどなどなど。

それでいて、開票してみると二位の細川さんに倍差をつけての勝利であった。んもうネットはどこを向いても批判しか転がっていなかったから、何かの冗談のように見えたほどだ。

 

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この件について考える機会があったのは、自宅で優雅に食後の珈琲などを頂いていた時だ。都知事選のニュースを見ていた父と祖父が

 

父「見てたら、舛添さんって気がするなぁ」

祖父「せやろかえ(そうだね)」

 

という話をしていたのである。父は多少ネットを使うようだが、祖父は完全にテレビや新聞からのみの情報を自らの判断材料としている。リテラシー意識って何さ、というお二人だ。

 

そこで、いくつかの疑問が生まれた。

父と祖父は他の立候補者のことを知っていたのだろうか?ということだ。

例えば家入さんなどは、少なくとも僕が見ていたニュースでは『起業家』としか表記されず、どのような理念信念でどのような会社を起こしどのように運営してきたのか、という報道が全く目に入らなかった。

そしてこんなことを言っている僕でも、マック赤坂さんや鈴木さんがどういう人物であるのか、全く知らないのだ。

多くの方との関係の中で事を成すためには認知度がモノを言う。そんなことはフリーランスのミュージシャンをしている身であるから大いに理解している。まず知られなければ、善し悪しの判断さえされない。知られたら、次は何をどう伝えるか、という話が待っている。これは古来から変わらぬ人の世の真理である。

 

平等とは何か。
公正とは何か。
認められるとは何か。
選ばれるとはどういうことか。

 

それはそのまま、ミュージシャンという生き方を選んだ自分達への問い掛けでもある。

 

知らないことは学び、出来ないことは修練し、息苦しいのならその原因に迫って解決を目指せばいい。

そんなことを思い生きていても、こういった巨大な第三者の介入があまりに圧倒的に見えてしまうことがある。それがまさに、今回の都知事選であった。

しかし

マスメディアは大変に大きな情報発信能力を持っているが、それ故に視点が固定的過ぎるのではないか、一部の人間の都合が反映された編集ではないのかと思うと、真っ直ぐ受け止めてよろしいものかと躊躇してしまう。

対してネットは大いに自由で多角的な視点が含まれるが、それ故に信憑性が低い。また″伝える力″の弱いユーザーの情報は、それがどれほど良い内容であったとしても、伝わらないし伝わってこない。

これが、現在の僕の感じている素直なところだ。

結局、事実というものはそれを受けた人の視点や価値観に偏る。仮に僕が都知事選の全てを知ったところで、その事実は僕の視点や価値観に偏って情報に変換されるんである。それは誰の何にとって公平で、平等であると言えるだろうか。様々な事柄は僕たちが思っている以上にグレーで、人の数だけ偏りがある。人を伝って伝わってきた情報は、既に大いに偏っているのだ。

 

それでも、万事は今回の都知事選のように、決定し、流れて、過ぎてゆく。躊躇していては老いて死ぬだけだ。今自分の手元に何があって、何ができるのかをしっかり考えて、実行しなければ。

というか、何かを持っているとかいないとか、出来るとか出来ないとか、そういう判断が既に幻想なのだろう。不安に根拠が必要無いように、自信にも根拠は必要無い。それなら僕は根拠の無い自信を持って、未来には希望があると仮定して生きていたい。

一人ひとりが能動的でいることが、本当の意味での平等であると信じる。

そして僕の大切な仲間達が日々戦っている東京が、あらゆる意味でより良い街になってゆくことを心から願っている。

朝夕のシロごはんと彼女の歴史。

我が家から山間を奥に向けて5分ほど車を走らせると母の実家がある。かつては7.8人の家族が居たのだけど、今は認知症の祖母と、祖母の世話をするために伯母が居るだけである。その祖母も最近は施設を出たり入ったりで、伯母も自分の家族があるものだから、時折二人して家を離れる。そうすると、その広い土間続きの昔ながらの家に、一人残される者が居る。シロである。

シロは猫である。体が白いのでシロである。耳と顔の真ん中と尻尾が茶色混じりに黒く、目は少しぼやけた碧色をしているが、他は全て白い。もう二十歳になろうかという老体で、足取りは重く声も低い。雌である。少食だが、水はよく飲む。身体を撫でられるのが好きなのだけど、誰かの後を追うようなことはしない。そのくせ、用がある訳でもなくても「なぁ」と鳴いて呼び付けてくる。フワフワの毛をしているが、抱き抱えてみるととても軽い。

シロが母の実家にやってきた時、僕はまだ小学生だった。母の実家は少し離れたところにビシャコと呼ばれる仏花を剪定するための仕事場を川沿いに建てていて、それがちょうど通学路の途中であったのだ。僕は折にその仕事場に顔を出して、当時健在であった祖父からアイスクリームを貰ったり、鼻血が出るから子供は飲むなと言われていたリポビタンDを一口だけ貰ったりした。ハンドル式のマッサージチェアに腰を掛けて、こんなものの何が気持ちいいのかと言って遊んだりもした。

シロはその仕事場に住み着いた野良ネコであったのだ。僕が遊びに行くと彼女はいつも隙を見せない距離を取っていて、物陰から物陰へと俊敏に身を躱し、同じくらいの大きさの茶色いネコとタッグを組んで、酷く警戒していた。茶色い方のネコの名前は覚えていないが、水を前足ですくって飲む技を持ったネコであった。

 

そのうちに茶色い方のネコが死んでしまったという話を聞いた。病気で餌が食べられなくなってしまったらしい。その頃は僕の家にもネコが居てそれはそれは可愛がっていたから、あまり気にはならなかった。

よくアイスクリームをくれた母方の祖父が亡くなったのが、確か僕が高校一年の夏の頃であったように思う。その頃には川沿いの仕事場は取り潰されていて、新しく大きな車が通れる橋を掛けるのだと言って、ブルドーザーやパワーショベルがぐるぐると走り回っていた。シロは家が無くなって、母の生まれた家に引っ越した。

シロは何度か家を抜け出して、仕事場のあった場所に戻ったらしい。大きな機械を怖がって離れたところに居たシロを連れて帰ったのだという祖母の話を聞いて、母が泣いていたのを何度か見た。

その後も母の実家には色々なことが起こって、今も起こり続けている。大変なニャン生であるなぁ、などと言いつつコンビニで買ってきたカイロを振ってダンボールベッドに置く。朝晩の餌やりとトイレの掃除をしたらシロを膝の上に乗せて20〜30分ほどお喋りをするのが、僕が勝手に押し付けた約束だ。年をとって引っ込まなくなった爪が足に刺さって痛い。また夕方に来るからと言って立ち上がると、車を出すところまで見送りにきてくれた。今夜は出掛ける用があるので少し早めに来なければならない。カイロがもう無いから、忘れずに買ってこなければ。

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ムーディー・トワレ

我が家の一階トイレは現在明かりが灯かない状態である。何でも配線関係の不具合であるらしく、電球を変えても無駄なのだとか。

そのため、今ただ一人一階に布団を敷いている父は夜中トイレに行く度に、電球の代わりに配置した貧弱なブルーライトLED電球をカチッと点灯させ、いやにムーディーにライトアップされた薄暗い個室の中で便器に狙いを定める、というイベントと遭遇している。

 

「配線を修理しないのか」

 

と聞いてみたところ、

 

「せなあかんねんけどなぁ」

 

と煮え切らない返事が返ってきた。もしかしたら父は青白い薄明かりの中でションベライザーを放つことがやぶさかではないと感じているのかもしれない。

僕の中には決して無い感覚である、これは体感せねばなるまいと、きちんと電気の灯くトイレのある二階からわざわざ一階のトイレまで足を運んだのが昨晩の1時ごろ。人生初の、ムーディー・トワレの時間である。

 

トイレの戸を開ける前に、昔の癖で電灯のスイッチを入れる。やはり明かりが灯ることはない。一通りの運動から期待していた結果が得られないと、人はイラッとするということに気付いた。

真っ暗なトイレの中に足を踏み込む。廊下の明かりのお陰でなんとか足下が見えるが、相当な暗さである。たしかこの辺に、と小さなLEDライトを探すと、小さなスイッチの付いた本体部分がコツリと指先に触れた。

 

カッチッ

 

「暗っ」

 

一人真夜中のトイレで、思わず声に出してしまうほどの暗さであった。元来照明というのは、その直下、あるいは周辺をしっかりと照らし出してくれるものである。しかしこのLEDライトは輪郭の全てを、透き通った海の中に揺れる月明かりが如き謙虚さでもって、

 

「なんかたぶんこんな形」

 

程度に青白く揺らしているだけで、しっかりと見えるのはせいぜいスイッチの付いているライトの足下くらいである。スイッチを切る分には困らない。喧嘩売ってんのか。

 

結果的に僕は一度の放尿で、えも言われぬ緊張感と圧倒的なアダルティックムード、そしておよそ15分間に渡る掃除時間を得た。2月深夜の水道水はそれはそれは冷たくて、雑巾を絞る度に

 

「あぉ」

 

と変な声が出る。もう二度と夜に、一階のトイレは使うまい。

 

LEDライト

問題のLEDライト。日中にスイッチを入れても、あ、そういう色なのかな、程度の発光。ちなみにこれ、スイッチ入ってます。

人生はゲームであるという仏陀の言葉を現代に伝える僕とさとらない彼女の不毛な会話。

「人生は苦である」

とは、仏教の教祖である仏陀の言葉である。これは

「どうせ人生辛いことばかりなのだから、諦めて開き直っていなさい」

という意味では無い。仏陀はこれに、

「人生は制約の中で障害やイベントが随所にちりばめられたゲームなんだから、ルールにのっとって楽しみ尽くしなさい」

という意味で伝えたのである。

この話を雲黒斎さんという方が出版された本で読んで感銘を受けた僕は、早速その旨を彼女に諭そうと電話を掛けた。これで彼女が人生の深淵に触れ、前向きになったなら、そのついでに僕に対してもっと優しくなってくれるに違いない。

 

僕「人生はゲームである。」

彼女「そんなクソゲーやってて楽しい?」

僕「どんなゲームもルールがあって、その制約の中でクリアーを目指すから楽しいんじゃないか。」

彼女「この前バイオハザードは怖いからアカンってゆーてたやん。」

僕「あかんくないゲームもあるんである。マリオカートとか。」

彼女「うちそれ嫌い。」

僕「他人の画面にイカスミを吹き付ける楽しさが分からんのか。」

彼女「他人の人生にイカスミ吹き付けて喜んでる神経の歪みに気付かんのか。」

僕「他人の足を引っ張ることがルールなんだから、それは楽しまなきゃいけない。」

彼女「1位になってる訳でもないのにトゲゾー甲羅弾が常に自分を追い掛けてくるマリオカートはつまらんやろ?」

僕「それはゲームのバグだ。正常な状態じゃない。」

彼女「今お前から電話が掛かってきた時、そんな気持ちになった。」

 

彼女がさとるには、まだまだ時間が掛かりそうだ。このゲームはバグっている気がする。

 


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僕の中では”ブッダ”といえばこの方。

 

細やかなニュアンスに拘る男のレコーディングと家族の絆。

先日のことだ。僕は新しい楽曲のレコーディングをしていた。まだ発表前なので詳しいことはお伝えできないのだが、この楽曲は非常にシンプルな構成をしているので、ちょっとした間やイントネーションで受け取るイメージが大いに変わってしまう。『簡単だから難しい』の典型的なパターンである。

ただ僕はギターの音と自分の声しか出せないから、そういったニュアンスで勝負が出来なければもはや存在意義は無いと言って良い。何日も何日も練習をして、何度も何度もモニタートレーニングを重ねた集大成が、そのレコーディングであったのだ。

マイクを立て、レコーディングソフトを立ち上げ、精神を集中させて演奏に臨む。クリックの音に耳を澄ませながら、一発録りのレコーディングが始まった。ギターの鳴らし方、爪の当たる角度と、弦とぶつかった瞬間のノイズ。自分の声がどうすればかすれるのかは、日々のトレーニングの中で既に掴んでいる。

こういった一発録りは、1テイク目で良いテイクが録れなければ、後は何回やってもダメなんである。「ここはうまくやろう」という考えが、音楽の中では雑念となる。その雑念が鮮度を落とす。気持ちの良い流れに身を任せていられるように、そういった細かな調整をしておくことを練習というのだ。

 

・・・長い潜水を終え、久しぶりの酸素を貪るスイマーのように、僕は大きく息を吸った。レコーディングは終了だ。手応えとしては、申し分ない。僕は鼻息荒くリプレイボタンをクリックし、楽曲のモニターにとりかかった。

 

ジャッジャッジャジャジャ

 

悪くないビート感である。次のセクションからスラミングの打音が入ってくるが、そのバランスはいかがか。

 

ドゥツズジャッ ッカツカッ

 

良いではないか。ビートのコントロールもようやく様になってきた、といったところである。そして間もなくヴォーカルのセクションだ。僕はより一層深く、音の世界に潜り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「にゃーん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ねこが居た。

今まさに僕のかすれたヴォーカルがとんでもねぇ哀愁を引っさげてインしてこようかってところにねこが居て、「飯をよこせ」と訴えていた。

全身を襲う脱力感と戦う。いや、全然小さい音だったから。こんだけ集中してる僕だったから気付けたアレだから。僕じゃなきゃ聞き逃してたから。そう自分に言い聞かせているうちに、波形はどんどんと進んでゆく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ゆうさくーおふろはいりなー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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おかあさんもいた。

おかあさんが、お風呂に行きなさいと呼び掛けていた。おかあさんダメだから。この後サビだから。一番聴いてほしいところだから。

「あ、はーい」

とか言って歌ってる人がお風呂いっちゃったら、変でしょ?アヴァンギャルドにも程があるでしょ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おーい先に風呂はいるぞー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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おとうさんでした。

なんか、山本家大集合でした。

しばらく、レコーディングは平日の日中にすることにします。

ひとりしりとり「軍隊式研修」

「コロラドブルドッグ」→「軍隊式研修」

 

僕は千葉に住んでいた後半のだいたい4年くらいを警備員の仕事で日銭を稼いで暮らしていた。警備員という仕事は傍目には居ても居なくても良さげに見える上に、実際居ても居なくても良い場面が多く、なおかつ居ても居なくても良い人材が登用されていることも多いから軽視され勝ちであるが、その実警備業法なる法律の定めるところにより、割と厳格に管理運営されている業界でもある。

その中でも現役の警備員を悩ませるのが、半年に一回の現任研修というものだ。警備員は半年に一度、実技3時間座学5時間(だったかしら?)の研修の受講が義務化されており、研修はそれぞれの会社の内部で行うように、とされている。そのため、我々は忙しい仕事の合間を縫っては都内にある基地の駐車場に集まり、右に回ったり行進をしたりよく分からない文言を大声で連呼したりせねばならなかった。

その研修も割とキチッと管理されていて、当然本場のそれの足下にも及ばないのだけれど、一応軍隊式のそれを取り入れていた。しかしまぁ、研修を運営している側が新人を使っていたりするものだから、まぁグダグダになるのが定例で。ウン十人という隊員をいくつかの分隊に分け、その単位でウニウニと動き回ったりなんやかんやするのだけど、だいたいどの分隊もしどろもどろとする。そうすると、決まって横からやってきては檄を飛ばすスキンヘッドの隊長が居たのだ。

この隊長、声が大きくメリハリがあるのは良いのだが、つまりその、気合いが入り過ぎていて何を言っているのか分からないのである。その何を言っているのか分からないぶりは大変に有名で、隊長が号令担当に使命されると、その場に集まった隊員がにわかに緊張に包まれるほどであった。具体的にはこうだ。

 

隊長「アーエーーーーッ・・・ッイィーーーーーッ!!!!」

訳:回れ右

 

隊長「イィッゥエーーー・・・イア”ア”ィッ!!!!」

訳:左向け左

 

隊長「ア”ァ”ーーーーーイッ!!!!」

訳:こらー

 

隊長「ア”ァ”ーーーーーイッ!!!!」

訳:そこー

 

隊長「ア”ァ”ーーーーーイッ!!!!」

訳:こっちこーい

 

といった感じである。後半3つのシャウト意味がその場の状況や隊長の表情などから汲み取れるようになるまで、少なくとも3シーズン、つまり1年半を要すると言われている。何を言われているのか分からず、一歩出遅れたがために再び「ア”ァ”ーーーーーイッ!!!!」と叫ばれている新人隊員の絶望に満ちた目は、あの警備会社の風物詩であった。

このように、人に何かを伝えようとする時、気合いは必ずしも全面に押し出せば良い、というものではない。むしろ、自分が一生懸命声を出している事実に酔っ払っているというのは如何なものかと思う。ただ、

 

「あの人は本当に集中してないと何言ってっか分かんないからなぁ」

 

と不思議な魅力でもって許されていたあの隊長は、どちらかというと勝者である気がする。今日もきっと関東の空に、あの隊長の叫び声が響き渡っていることだろう。

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僕が一番長く居た浅草の現場の写真。この現場の隊長は何を言っているのか分かる人だった。とても幸せなことだったと思う。

 

アメブロ時代のひとりしりとり記事

→・アメブロ「ひとりしりとり」まとめ

軽トラロードとワンパクじいちゃん。

ここ最近のブログから漂ってくる田舎臭が大変な濃度であるが、事実田舎に住んでいるのだから許して頂きたい。静かで大変に暖かいのだけど、レコーディングなどをしていると猿除けの空砲の音が鳴り響いたり、風が木竹を撫でる音が響いたり、ネコのカイちゃんがエサを寄越せと鳴く声が響いたりと、思いのほか色々と響いている。どんなハードなリフを弾き込んでいても、奴隷を呼びつけるネコ様のお声が入ってしまっては、それはもはや牧歌である。自ずと角も取れてくるというものだ。

カイちゃんは今日も行く

 

そんな日々に、今日は新しい声が響いた。じーちゃんが、寝室の蛍光灯が点かなくなったので、買い物に行くのに付き合えというのである。ちょうど情報を回していて頭の中が沸々と煮立っていた時であったから、僕は喜んでその誘いに乗っかった。

 

じーちゃん「日曜日で電気屋ら閉まっちゃぁるんとちゃうか」

 

知らんがな。

移動中、僕に軽トラの運転を押し付けたじーちゃんが、後方に流れてゆく田畑を見送りながら呟く。こちとら誘い出された身である。ちょうど、おいしいお菓子があるから一緒に来ないかと言われて知らないおじさんに付いていってしまった子供と同じだ。

僕のツッコミが聞こえているのかいないのか、じーちゃんは相変わらず窓の外を眺めて、ほーだとかへーだとかと呟いている。

 

じーちゃん「やっぱい閉まっちゃららよぉ」

 

せやから知らんがな。

クリーム色のシャッターは「誰も通さないんだかんねボカァ」と確固たる決意を持って東電機の店内を外界と切り離していた。横一文字に走った青色のラインと、白いパナソニックのロゴが憎らしい。そしてじーちゃんは軽トラの助手席でふぇーだとはお”お”お”だとか言って唸っている。

 

じーちゃん「ほな、しゃーないから遠回りしてかえろか」

 

何が「ほな」なのか。「しゃーない」の使い方はそれで正しいのか。様々な疑問が脳裏をよぎる。僕には仕事があるのだ。じーちゃんには楽器で遊んでいるだけだとか、パソコンで何かよく分からないことをしているだけに見えるかもしれないが、これは仕事なのである。明日のゴハンが掛かっているのである。そうそう自分の時間を軽く扱う訳にはいかない。僕は酷く憤慨して、じーちゃんに一言言ってやろうと、軽トラの運転席に漂う土の香りのする空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

じーちゃん「どっかで甘いもんでも食べていのらよぉ」

僕「はぁい!」

 

胸いっぱいの空気が大変に威勢良く飛び出していった。そういうことなら仕方があるまい。戦士には休息も必要である。腹が減っては戦は出来ぬ。甘いものを食べずして自宅に戻ることなど、とても有り得ないことのように感じられた。

ところで、じーちゃんの喋り言葉は可能な限り本人の発声に近いニュアンスで表記してある。地元の方言と本人のロレツによる文体の変化で多少読み辛い部分もあるかと思うが、ご了承願う。なお、「いのらよぉ」の「いぬ」とは、「帰る」という意味の和歌山弁である。

 

じーちゃん「あそこな山登ってこら」

じーちゃん「道せばいんで気ぃつけぇよ」

じーちゃん「ほんにええ景色やさかい、彼女らと来たらええわ」

じーちゃん「軽トラックではムードが無いわなぁw」

じーちゃん「ほれ、ええ景色じゃ」

じーちゃん「道せばいどっ」

 

んもうノリッノリであった。運転に集中していると景色が良いからと見下ろす海を指差し、景色に目をやると道がせばい(狭い)と言って安全運転を要求してくる。どうしていいのか分からず、あーとかおーとか言っているうちに、軽トラは峠を越え山を越え、風車の生えた山頂を左手に見上げながら、和歌山県の海と山の間をぐるりと回った。

山道などを走っていたものだから、喫茶店などあるはずがない。僕たちはぐるりと回ってきた道をもう少しだけ進んで、高速道路の乗り口にあるローソンのイートインに入った。

 

じーちゃん「なんど甘いもん買うてこいよ」

 

席に座り財布を渡してくるじーちゃん。ホットコーヒーが欲しいということだったので、ローソンのマチカフェでホットコーヒーとカフェラテを注文し、ミニシュークリームを買ってじーちゃんの待つイートインに。コーヒーを出してシュークリームを開けると、じーちゃんは店内に響き渡るほどに大きな声でこう言った。

 

じーちゃん「こんなもんら食べたことないわ」

 

そんなことないから。じーちゃん、正月にアホほど食べてたから。カイちゃんモフモフしながらすごい幸せそうだったから。

 

じーちゃん「(もぐもぐ)・・・こりゃあ、シュークリームみたいなもんじゃな!」

 

素晴らしい推理であった。推理の概念一新である。

そんなこんなで僕とじーちゃんの軽トラデートは、シュークリームらしきものを頬張りつつ終了した。

そういえば、一緒に昼食を食べ、畑の溝を掃除し、ドライブをしてテレビを見て・・・僕は今までの人生の中で、一番じーちゃんと触れ合っている。音楽とa.c.c.r.の仕事が周り始めると、またすぐに大阪や東京を飛び回る日が返ってくる。それは僕の使命であり天命であると思っているから、そうならなければならないという思いである。

だから、今受け取れるものと渡せるものは、しっかりと交換しておこうと思う。

ところで、明日は蛍光灯を買いに行くんですかね?

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カイちゃん「んなぁ」

じーちゃん「なんよぉ」

 

話聞いてください。

楽曲作品のミックスダウンとその弊害。

パソコンに向かってレコーディングした楽曲のミックス作業などをしていると、同じ曲の演奏をウン十回ウン百回と聴くことにかる。僕のミックスなどは素人に毛の生えた程度のものであるから、ピッチシフトを使ってこまかな修正を加えたり、波形を少し触ってリズムのズレを調整したり、という作業をしない分、通常のエンジニアよりはずっと作業量が少ないのだけれど、それにしたって何度も何度も聴くものだから、お耳が馬鹿になってくるのである。

お耳が馬鹿になるとどうなるかというと、そのサウンドの良し悪しの判断が付かなくなるのである。作業の掛かり始めは

 

「ここはこうした方がよろしいな」

「あそこはもう思い切ってバッサリカットした方がよろしいな」

「いっそのこと録り直した方がいいな」

 

といった判断がザックザックと下せるのであるが、そのうちに

 

「ここはこうしたけどよろしいか?」

「あそこの継ぎはぎが何回聴いても繋がっていない気がする」

「録りなおすにもこのミュージシャンは千葉で僕は和歌山で」

 

といった、暗雲の中で苦しみ悶える地獄の様相を呈する。それでも僕のミックス作業のスピードでミュージシャンのアルバムのリリースタイミングが決まるのだから、可能な限りの速度で作業をこなさねばならない。そうこうしていると、追い込まれている状態やそのミュージシャンの音を弄くり回している状態が普通になってくるから、それに伴って様々な弊害が生まれる。

 

・いつどこで何をしていてもうっすらと曲が流れているように聴こえる
耳をリフレッシュするために森林浴にでも、と自宅の側の山に入ると、どこからともなく現在ミックスをしている楽曲が聴こえてくるのである。そうこうしているうちに目の前にフェーダーが浮かび上がっているように感じられ、もはやその形状に変化した右手がエアーマウスを操作し、調整作業に入る。

なんとか上手く調整ができた気がすると、

「これはもしや」

と妙な期待が発生し、大急ぎでパソコンの前に座って今まさにエアーミックスで処理した調整を加える。その調整がとっとと仕事を終わらせたい願望が見せた都合の良い幻であったことに気付くのは、もう少し後である。

 

・気が付くとミックスしている曲を歌っている

基本的にミックスしている曲が好みかどうかは関係が無い。仕事として受けたからには、どんな楽曲に対してもベストを尽くすのがエンジニアの使命である。しかし、やはり好みでない曲は存在する訳だから、作業に集中している時には何とも思っていなくても、その前後で

「やっぱり好みじゃないよなぁ」

と感じる次第だ。

ところが、毎日同じアーティストの同じ楽曲を調整していると、次第にその曲がこのやんごとなく脳細胞に刷り込まれてゆく。気が付くと、風呂場でゆったりしている時等にふとその曲を口ずさんでいたりするのである。この敗北感は、筆舌に尽くし難い。

 

・彼女との関係に亀裂が入る

始めから亀裂が入っているのではないかという可能性も無くはないが、既存の亀裂がさらに大きくなるとか、残った僅かな固形部分に新たな亀裂が生まれるとか、とにかく亀裂が入る。具体的にはこうだ。

彼女が仕事終わりに自宅までの自転車を漕ぐ30分間を僕の愉快で前向きでクリエイティブなトークで間に合わせろ、という企画が日々決行されている訳だが、僕がミックス作業に追われていると、まぁつまり、何も出来ない訳である。

そうするとどうなるかというと、彼女が喋り出す訳だが、それに対しても生返事であるから、柔らかな言葉で言うと、

「ご逝去頂けませんでしょうか」

といった指摘を受けることになる。このようにミックス作業といというのは、男女の関係(笑)にもおおきな影響を与えるものである。

 

ということで、様々な角度からの検証を重ねた結果、楽曲のミックス作業は人間の人間らしい生活を破壊するに十分な破壊力を秘めているということが分かった。このデータがいつか国家政府の元に届き、パフォーマンスアートに対する潤沢な補助金や、疲れた時にプッチンプリンを買ってこいと命令しない彼女の支給などに踏み込んで頂けると、幸いである。

あ、僕があなたのアルバムをこさえてるからって特に責任を感じたりする必要は無いんですよ柴田さん。

ほんのちょっとだけ、幻聴と幻覚と彼女との関係の悪化と腰痛と肥満と左乳首の痒みに襲われてるだけだから、気にしないでいいんですよ。はは。

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仕事に身を捧げる好青年のデスク。体調を崩さない方が不自然。

【復刻記事】僕の無事を祈る。

先日彼女に貸しているケータイが壊れた。
異常なまでに物持ちの良い彼女はケータイやパソコンなども本当に動かなくなるまで決して手放さず、節操なく投げ飛ばしたりうっかり他の荷物の下敷きにしたりしながら徐々にそれらの機能を殺し、生命の雫一滴をすすり切るまでその手を休めない。
以前使っていたケータイも電源がつかなくなったためにアドレス帳を移すことができず、当然その不機嫌さの余波を受けた僕は、頼むからアドレス帳のバックアップデータはとっておいてくれと頭を下げていた。
あの時は本当にこれが余波かと目を疑ったものである。

今回壊れたケータイもヒンジ(二つ折りの首の部分)が片方砕かれていたがそれでもハードな使用に耐え続け、最終的にディスプレイが召されるその日まで牛馬のごとく働かされていたという。
彼女からケータイの様子がおかしい、ケータイのくせに私の言うことを聞かない、といった連絡を受けた時、僕はようやく魂の牢獄から開放された彼の安息を心から祝福し、近い将来自分の身にふりかかるであろう終焉の時を見たかのような気持ちになって今ここにある日々を戦々恐々として生きている。

とにかく早急に新しいケータイを用意しなければならない。
当然のことながら彼女からは新しいケータイの催促の電話がきている(お互いソフトバンクのケータイも持っているのだ)。
僕が

「そんなに早く僕と気兼ねなく連絡がとりたいのか。 かわいい奴だ。」

と言うと、

「近所に住んでる年下の男の子がモンスターハンター3を買ったから二人で遊ぶねん。 その子の連絡先が壊れたケータイにしか入ってないから、はやくつながらんと困る。」

と言われた。
元々も互いの間だけの連絡のつもりで作った回線ではなかったか。
というか僕が金を払っているのにどうしてそんな堂々と別件で使えるのか。
年下の男の子とは誰なのか。

様々な疑問が胸をかすめていったがそんなことはどうでもいい。
とっとと次のケータイを用意しなければ何を言い出す分からない。
機種は何でも良いと言われたが、本当に何でも良い訳が無いことは言わずもがなである。
再三に渡る協議とやはり山ほど出てきた要望をまとめた結果、IS03なる機種を購入することとなった。
62000円だ。
うちのパソコンよりも家賃よりも高い。

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ということでauで働いていたころの同僚に無理を言い、発売日当日にこれを手に入れることに成功した。

「予約ばかりで普通に店に行ったのでは買えなかった代物だ。 大事に使いなさい。」

と言い新しいケータイを郵送で渡すと(実際送った文面の大半を占める「ごめんなさい」と「すいません」は省略させていただいている)、この時ばかりはさすがに彼女もお礼の言葉を言っていた。
その言葉が僕の頭上を大きな放物線を描いて通り過ぎ、元同僚の頭上に降り注いだことを確認したと伝えると、彼女は一瞥もくれずに一言だけメールを打ってきた。

「これ使いにくい」

別のものに変えろと言われなくて本当に良かったと胸を撫で下ろす。
何だかんだで新しくて高いものを持っているということで、実際のところ機嫌は悪く無いようだ。

だが一つ、決死の覚悟で彼女に伝えなければならないことがある。
その件については既に散々催促をされているが、きちんと答える勇気がなかなか出ない。
だがこのまま粘りつづけたところで待っている未来は変わらない。
そうして僕は勇気をふりしぼって文面を作った。

「そのケータイには、アドレス帳のバックアップデータは落とせないらしいです。」

後は送信ボタンを押してケータイの電源を切るだけだ。

※この記事は

「君の並々ならない人間的魅力を世間の普通の女しか知らない男たちにも知ってもらいたい」

「なら仕方ない。 きちんと素晴らしい人間だといい男を選んで伝えるように」

と彼女本人の了承を得て書かれています。
若干美化が過ぎるところがありますが、僕の身を守るためと思い御容赦下さい。

2010/12/31更新