希望とは思い出すもの

やらないといけないことはあるのだけど、どうにも胸元がざわざわしてきたので、色々整理するために新百合ヶ丘のカフェコロラドでキーボードを叩いている。ここしばらくの間に色々な変化があって、その変化にもう身を任せてしまおうと力を抜いたのだけど、そうしたときに身体をこわばらせることで押さえ込んでいた気持ちや感情の塊が膿の塊のようにどろりと流れ出てきた。こんなに熟成してましたか、とやや引いたり、戸惑ったりもしたのだけど、よく見るとその膿の中にに懐かしく輝く宝物のような気持ちがいくつも混ざっていた。いつの間にか憧れて、背伸びをして追いかけて、あの日諦めたもの。そんなものばかりだ。

その中からひとつ、確認できる中でも一番大きかったものを拾い上げて、少し眺めてみたい。

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僕は小学生のころ、合唱の練習をしているとき音楽の先生に「優作くんは口パクにして」と言われたことがきっかけとなって、歌うということに強いコンプレックスを抱いた(それよりも前に、「自分がやりたいことに人は価値を感じない」というより根源的な思いを抱くきっかけになった出来事が何度もあったのだけど、それは別の話し)。中学校に上がった優作少年は自分の歌に対して「そうじゃない」「ダメだ」と言われることが怖すぎて、音楽の授業で歌えなくなった。思春期真っ盛りだった当時は、どちらかというと、自分を傷付けようとした何かに対する反抗や復讐のつもりでそうしていたのだけど、要は、否定を向けられることが怖かったんである。

などという学生活動を行う傍らで、家でギターを弾いたり歌ったりということを本格的に始めたのも、中学校に上がったころだった。10代前半らしいデリケィトな心理状態を表現しつつ、隠れて野良猫を育てるように、僕はトラウマの陰で歌いたい気持ちに水をやり続けた。

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人間の記憶というのは基本的に「これはいつごろのもの」というタイムスタンプが押された状態で残るらしい。ところが、大きすぎるショックというのはタイムスタンプを”押し忘れた状態”でサーバーに放り込まれるのだそうだ。サーバー内のフォルダは年月日の視点でで整理されているので、タイムスタンプの押されていないショックの記憶は細分化されたフォルダの奥に格納されることはない。「分類不可」ということで、フォルダの上の方に放置され続けるのだ。つまりトラウマとは、人間の記憶フォルダの上層部に放置された、分類不可の悲しいファイルなのだ。

・・・ということはつまり、僕の音楽フォルダの一番には、常に「優作くんは口パクで」の超リアルな動画ファイルがどーんと置かれていたのだ。だから僕が音楽に関する思いを抱く度に、目の端にチラチラ入ってきたり、勝手に動き出してメディアプレーヤーが動画を再生させはじめたりする。しかも、「やっぱり優作くんは口パクしていた方がいいんだな」と解釈のできる物事と、タグでガンガンつながり始める。ちょうど、Googleで『墓石』と検索をかけると、次の日から大量の墓石に関するレコメンド広告が流れ込んでくるのに似ている。すいません、まだ予定ないです。

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聞きかじっただけの話しをエビデンスも探さずに展開させてみたけど、僕としてはこの仮説にとても強い納得感を抱いている。仮に僕の音楽フォルダの上の方に、トラウマファイルが整理されないまま大量に放置されているとしよう。そうするとどうなるかというと、僕はトラウマフォルダを目の端にとらえつつ、そそくさと次のフォルダに潜っていく、ということをするようになる。「歌う技術」とか「ギターの弾き方」とか、そういった枝葉的なフォルダを大急ぎで開こうとしてしまうのだ。

その結果何が起こるか。僕はトラウマを目端で確認しつつ、”「音楽」フォルダの一番上は「歌う技術」フォルダだという勘違い”をし始めたのだ。僕のファイル管理システムは整合性を失った。音楽に向き合う度に、認識していない本当の一番上のフォルダから悲しい気持ちがこぼれてくる。それは以下のフォルダに黒い染みを作り、「ブレスコントロール」や「響きの調整」といったアプリケーションの動作を妨害した。どんなに練習しても、染みつきのアプリは正常に動かない。僕のアプリは、美しく動かない。

さらに深刻なことに、僕が音楽に向き合うための根本的な理由も失われた。自分がどうして音楽をしているのか、全く分からなくなってしまったのだ。なぜなら、僕がトラウマファイルを見たくないがために認識することさえ放棄した音楽の最上位フォルダには、『歌うことが大好きだ』というファイルも、タイムスタンプ無しで保管されていたのだから。

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歌は振動だ。人体の振動。人は母親のお腹の中にいる間、母親の振動を感じながら安らいでいる。だからそもそも、人体が作り出す振動には人に安らぎを与える力がある。僕は歌うことで振動し、安らぎを得ていた。そのことを思い出して歌ったら、やっぱり涙が出た。そうだった。歌うって、気持ちがいいことだった。

今のところ僕の周りに試験管で生み出された人造人間はひとりもいない。鉄と硫黄の濁流に雷が落ちて誕生したと思われるわが妻でさえ、実家には赤ん坊時代の写真がある。ということは、僕が歌うことで生み出す振動は、研鑽により生きた人間の純粋なそれに近付くにつれて、例外なく人の心に安らぎを思い出させるはずである。そう信じてみよう。

歌うって楽しい。膿の中から拾い上げた宝物は、ようやく認識された最上位の音楽フォルダの中身は、どんな超絶テクニックや音楽ビジネス事例よりも重要で素朴な、僕の取り扱い説明書の1ページだった。僕はやっと、歌手になれそうだ。