
1聞いたら10喋るというくらい、人の話しが聞けない人生だった。完。
なんてことにならなかったのは、僕の人生に起こった大きな奇跡のひとつだ。何かにつけてクソバイス(求められていないアドバイスのこと)を垂れ、静かに人から嫌われていたわが人生が、今はすっかり真逆の方向に向かって伸びている。
よくある話しだけど、人の話しが聞けるようになったら、本当に人が話しを聞いてくれるようになった。アイデアを提案したり、恐れ多くもアドバイスをさせていただく機会も増えてきた。それも、仕事として。
何が変わったのか。何を変えたのか。自分のために「話しを聞く」ということに関する考えや、感じていることを言葉にしておこうと思う。もしよかったら、付き合ってもらえるとうれしい。
「聞く力」なんかない
「聞く力」なんて言葉がちらちら目に入る度に、気持ち悪いなぁと思う。自分が何かを話している時に聞き手がバキバキに力を入れていたら、こわい。迂闊なことを話したらラリアットとか飛んできそうじゃん。
断言するが、人の話しを聞く時に力など要らない。声は自分に向かってくる空気の振動だし、言葉の意味は脳のデータベースとの絶え間ない照合作業で理解される。これらは聞き手の意思とは関係のない次元で発生している物理現象だ。
そのシステムの質にポジティブに干渉できる筋肉を、僕は知らない。聴覚筋なんて、ない。「力」という単語を使うから、僕のような者が話しを聞く時に力を入れて、余計な筋肉を収縮させて、ラリアットの構えをとる。
声や音、言葉といった刺激は、僕たち聞き手が取りにいかなくても、勝手に飛んできて勝手に受信されている。そこに努力はいらない。むしろ、努力すると「聞く」の質が下がることになる。
メモを取ろうとすると相手の言いたいことが分からなくなる
僕は人のやりたいことに60分間本気で付き合う、というコンセプトで個人セッションを提供している。セッションはコーチングになることもあるしカウンセリングになることもあるので内容を一言で伝えるのは難しいが、どなたと話していても超楽しい。マジバイブスブチ上がる。
その個人セッションをやり始めた当初に一生懸命取っていたメモを、ある時から一切取らないようにした。そしたら、セッションの質が上がったのだ。なぜか。
単純な話しなのだけど、僕が手元のiPadにメモを書くスピードより、相手が話すスピードの方が早い。だからメモを取っている間に話しが進む。メモを取っている間に相手が話した内容は、聞き逃される。
一応iPadとペンは用意しているが、今ではセッションが終わった後に、そのセッションでどんな話しをしたのかをサッと書き込むだけにしている。タスクが生まれれば、当然それも書き出す。後は次回のセッションの前にそのノートを読み返せば、だいたいのことは思い出せる。
話し言葉にフォーカスしようとしても相手の言いたいことが分からなくなる
では相手の話し言葉にフォーカスすればいいのか。それも違う。話し言葉にフォーカスすると相手が言いたいことが分からなくなる。なぜか。
話し相手が伝えたいことは、言葉ではないからだ。言葉は相手の中にある感情や考えや感覚を表現する手段でしかない。「甘いものが食べたい」と言った妻の言葉を真に受けて大事に取っておいたプリンを差し出すと、彼女は「ちょっと疲れを感じた気持ちをを聞いてほしかっただけなのだ」と告白する。僕のプリンを食べながら。許さない。
言葉は2つの意味を持っている。ひとつはコミュニケーションが潤滑になるように「この言葉はこういうことを表現してるんだかんね」という共通の認識を前提に記号的に使われる意味。もうひとつは、その言葉を使う話し手が個人的に込めた個人的な意味だ。
この2つの意味はどちらか一方しか存在しないのではなく、両方の意味が割合を変えながら含まれていることが多い。そして日常のコミュニケーションの中では、圧倒的に個人的な意味の含有量が大きくなる傾向がある。
特に相手が「愛」や「腹が立つ」や「悲しい」といった深い言葉を使った時は注意が必要だ。深い言葉は使う人によって、そこに紐付けられている意味や経験、身体的な感覚が、まるで異なる。何より聞き手である自分自身も、言葉に対して個人的な意味を持たせている。
僕たちの話し相手は、それが今日初めて会う人であっても、10年連れ添った家族であっても、僕たちの知らない意味を込めて、その言葉を使っている。そのことを忘れないようにしたい。
相手が言葉を使って「何を」伝えようとしているのかに意識を向ける
メモを取ってもダメ。話し言葉にフォーカスするのもダメ。ならどうすればいいか。相手が言葉を使って伝えようとしていることが何かを理解しようとすればいい。
言葉が伝えようとしているのは、言葉ではない。言葉は言葉ではないものを説明する時に使用されるツールでしかないのだ。
誰しもが「言葉にできずにもどかしい」という感覚を経験しているだろう。言葉を重ねすぎたせいで、本来伝えたかった意図が伝わらなかった、ということもあるかもしれない。
まだ言葉を知らない子どもは、伝えたいことを言葉で表現することができないもどかしさで泣く。大人になっても、言葉のボキャブラリーが少ない人は自分の感情や考えを表現できないので生き苦しい。
相手が言葉を使って伝えようとしていることは何なのか。この人は何を分かってほしいのか。この問いを自分に投げかけ続けることが、「聞く」ということだ。と思う。
「聞く」とは、話し相手が伝えようとしているものを一緒に探す作業
だからメモを取らず、言葉は食い違うものだと承知して、相手が伝えようとしているものを一緒に探す。これが「聞く」という行為の、ハイクオリティ・バージョンだと思う。
まあ正直な話し、これを普段の会話の中で本気で実践しようとすると、なかなか疲れる。死ぬほど面倒臭い。自分とも向き合わないといけない。しかも、そこまでやってなお、食い違いは頻繁に起こりえる。報われないったらない。
とはいえ、やはり「聞く」のクオリティは高めたい。「聞く」は「話す」に通ずるからだ。そのためにまず、人は僕たちの知らない意味を込めて、僕たちも知っている言葉を使っているという事実を腹に落としたい。そうすれば少なくともコミュニケーションに対する過剰な期待がなくなり、今よりもも少し謙虚に振る舞える気がする。
しんどくても、報われなくても、やり続けるのだ。自分の「聞く」のクオリティを磨くには、それしかない。そういう意味では、身体の筋肉は関係ないが、心の筋肉的なものを鍛え続ける、という表現はできるかもしれない。あ、「聞く力」、要るわ。