近況報告と、これからのことを徒然に

ゆうさく
ゆうさく
読みやすいように構成したり整理したりしてない日記的な記事だから、ムリして読まんでもええやで。

年末年始に自分がアスペルガーらしいということが分かりました。その時は「なんだそれじゃあアレもコレも仕方ないよね、だって発達障害なんだもの」と笑っていたのだけど、ある時ふと、未来が真っ暗だぞ、ということに気付いて、ひどく落ち込みました。

これ、適応障害っていうらしいですね。何せ憧れていた、目指していた人たちが、徹底的に超優秀な定形発達。視点が広く、物事や他人と自分の間にきれいに線を引けている人ばかりで。

だから、何かに取り組みはじめるとすぐに視点が狭くなっちゃったり、物事や他人と自分の境目が分からなくなって、ちょっとした反応ですぐに傷付く自分は、ああいう人たちと同じような生き方はできんのだと。

しかも子どもは一歳になったばかり。奥さんは自分の人生を捧げて子どもを育てて、毎日みんなのごはんを作ってくれている。この家庭を経済的に豊かにしていくのは僕にしかできない仕事なのに、僕はこんなにも無能で無力。

まさに、お先真っ暗でした。正直、結構死にたかった。でも死ぬこともできない。僕が死んだら、妻と子が露頭に迷っちゃうもの。

仲間が生かしてくれている

そんな中で勤め先のボスがとにかくサポートをしてくれて、どんどん環境が良くなります。業界としてブラックだと言われている広告業界で(実際真っ黒やで)下請けという負荷の大きな位置にいる小さな会社で、二人しかいない社員が発達障害だったって、これ会社的にかなりヤバいでしょう。

それでもボスは本業の仕事を止めて、できることをやりなさいと言ってくれて。本当なら本業にきちんと取り組んで、残った時間でやりたいことをやるというのが筋なのに。僕が本業に取り組むと、余裕どころかまともな生活時間も確保できなくなることを分かって、そうしてくれました。

何なら、新しくスケジュールやメンタルをケアしてくれるポジションに信頼できるスタッフを招いて(僕の友だちなんだけどもね)、さらにコストをかけてくれております。この会社、ヤバい。

そうやって助けられながら、落ち込み期突入から二週間程度で、少しだけ気持ちに余裕ができてきました。それからさらに一週間くらいして、筋トレを再開してサプリを飲み始めます。これでまたガツンと戻った。

で、今。僕を救おうとしてくれている、もう一人の人間に気付きました。過去の自分自身です。

ネクストプランを作りました

過去の僕が今の僕に送ってくれているメッセージはたくさんあるのだけど、ひとつ大きなものを出すとしたら、それは『ネクストプラン』という考え方です。

今やっていることが上手くいかないのは、今選んでいるプランが間違っているからだ。だから新しいプランを作ろう。慣れ親しんだオールドプランに代わるネクストプランを作ろう。

優秀な定形発達的脳と、僕の脳は作りが違う。それは能力ではなく、機能の問題である。だから、そっち方面の成功者に学んでも、恩恵は小さい。

なら徹底的に自分のことを調べて、理解して、そこから始めよう。それが過去の僕からのメッセージを受け取った今の僕の、ネクストプランです。

まずは発達障害のことを勉強することにしました。ありがたいことに発達障害って、ずいぶんと研究が進んでいます。国が取りまとめているサイトや、精神科医やカウンセラーが出している本を読むと、僕のことがズバリ書かれているのです。

何なの。何でそんなに分かってくれるの。僕のこと好きなの。ずっと見てるの。ちょっと引くんだけど。

まあとにかくだから、僕は自分探しとか、しなくていい。ちょっと調べれば自分のベーシックな情報は、昔からの偉い人たちが研究してまとめてくれている。これ、かなりのアドバンテージじゃないすか。そう思うことにしました。

さらにその先のプランへ

そんなわけでコツコツと勉強を進めています。僕は自分に都合のいい情報を集めているだけのウォッチャーなので、医療系の情報は迂闊には書けない。その代わり、情報を集めてる中で僕の身に起こった変化をシェアしましょう。

まず、最初は自分のそれまでの苦手がすごく強化されました。アスペルガーは、自分がこれと思ったものに対する興味、関心、こだわりが非常に強のが特徴と言われています。

だから仕事で何かに取り組んでいる時には、こだわりが強すぎて融通がきかないことが多い。そのせいで本編にあまり関係のない作業に夢中になって段取りが押したり、間違った方向に進んでも気付かない。

あとヤバいのが、自分が興味、関心のないものに対して取り組むことに大きな苦痛が伴う。これが情報収集の過程で「そうそうそうそう!」という深い納得と共に強化されて、正直もう弊社の本業には戻れなくなりました。あっさりと背水の陣です。

加えて、物心付いた頃には「やりたいことに夢中になると、周りが見えなくなって暴走して怒られる」を繰り返していた僕は、自分がやりたいことに夢中になると周りに怒られる、という信念を立派に育んできていました。面白いよ。全部段取りして、後はやるだけってなった途端に、悲しさが溢れてきて動けなくなるの。

そんな感じで、どうしても調べていくうちは「できないこと」に注目が集まってしまって、ようやく立ち直ってきていたのに、改めて「もうこの会社に居ない方がいいかもしれない」くらいの考えが湧いてきました。正直、今でも気を抜くと、そんなことを考えてしまいます。

だけど、僕の周りの人たちが僕を助けようとしてくれているのに、僕が僕を助けないわけにいきません。

「できないこと」と「できること」はセットです。興味関心のないことに取り組むことは苦痛だけれど、興味関心のあることに対しては周りが引くくらいには取り組める。

周りの人から怒られることを恐れていると能力が3%くらいしか発動しないのだけど、周りの目を無視すると、どうやらかなりの能力と独特な魅力を放つらしい。

自然体でいることを矯正し続けてきたから、同じような生き方をしてきた人の気持ちに寄り添える。

あと、自分にできないことや苦手なことが多すぎるので、たいていの人の「できること」を素直にリスペクトできる。

真っ暗だった未来が少しずつ明るくなってきました。

未来が狭まったのではなく、実現性の低い可能性が振り落とされた

未来は無限で、僕は何者にでもなれる。そう思っていた青年時代を、今は懐かしさと危うさを感じながら思い出す次第です。

実際に何者にでもなれる人って、いるのかもしれない。でも少なくとも僕はそういうタイプじゃなかったんだなあと。これもまた、結果論なのだけど。

もう、努力すればなんとかなるという幻想は捨てることにしました。だって努力してきたんだもの。上手くいかなかった時は「努力が足りなかったんだ」って言いながらさらに努力して。そうやって34年間生きてきて、このザマです。明かに何か間違えてる。

努力をやめるというのは、「努力すればできるかもしれない」という可能性を捨てるということでもあります。これが中々勇気がいる。どういう勇気か。死の恐怖を乗り越える勇気です。

ちょっと強引な言い方だけれど、僕は自然体でいたら怒られて、夜に家の外に放り出されて、背中に孤独と死を感じながら、泣いて謝りながら、玄関の戸を叩いたのです。命乞いをしたのです。そして自然体でいることをやめる努力をしたら褒められたのです。

ちょっと共感してもらいづらいと思うのだけど。だからもう、好きなことをしないとか、嫌なことを頑張ってするとか、そういうことが生存戦略としてビッチリ染み付いています。

自然体ってつまり、持って生まれた性質を制限していない状態です。自然体でいると死ぬ。それが今の僕の中にある、生存戦略OSの基本設定です。僕の中にある「努力すればできるかもしれない」感は、それに由来します。

これをやめる。生まれ持ったOSに戻す。ああ、書いていてもう怖い。なんとか回避する方法はないかって、心から思う。ないねん。だから勇気がいるねん。こわ。

これも努力じゃないか。そうです。この世には苦痛につながる努力と、幸福につながる努力がある。たぶん僕は、自分が生まれ持ったOSに戻る以外のことを、全部やった。それでダメだったから、もう強制終了なのです。他に手は残ってない。

もしかしたら、これまでの生存戦略OSで生きていた僕を好きでいてくれた方は、あいつ変わったなってなるかもしれない。それも怖いです。孤独と死はイコールなので。そして僕は自分と他人の間に境界線がないアスペルガーなので。あなたが僕から離れていくことは、まさに身を切られるような痛みなのです。

でも、そういう観念で生きる人生が幸福につながっていいないらしいことは、もう嫌ちゅうほど分かりました。選択肢はないのです。僕は今日まで自分を生かしてくれた生存戦略を捨てる努力をします。ああ、こわい、こわい、こわい。

的な、とりとめのない独白記事でした。もし最後まで読んでくださった方がいたら、ありがとうございました。こわいなあ。あはは。