「ひざげ」の手のひらに鉛筆の芯がズギュンしてる。


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すっかり奥まで入ってしまって、どれだけじっくりと見ても染みにしか見えなくなったのが、中学3年生の頃だと言った。
僕は普段めったに話しをしないクラスメイトの手のひらを見つめて、「痛くないのこれ?」と聞いた。
時々ジクッとするくらいで、部活のバスケットボールをするのにも、特に支障はないのだと、彼は返した。

彼は「ひざげ」と呼ばれていた。
すね毛の発毛範囲が異常に広く、一般的な男子ではおおよそ生えないであろうというエリアにまで、すね毛の猛威が広がっていたのだ。
その進行が如実に表れていたのが、ヒザであった。

このままではこの男はいずれ、いやおろらくは確実に、すね毛にまみれて死ぬのだろう。
そんな彼のことを、彼の周りの友人達は哀切と憐憫の情を込めて、「ひざげ(膝毛)」と呼んだ。

「付き合う人を間違えたんだな。」

そう言って「ひざげ」は、膝の毛を揺らして笑うのだった。

そのひざげには、知る人ぞ知るもうひとつのセールスポイントがあった。
手のひらに鉛筆の芯が深く刺さり、その上で完全に皮膚が塞がって、もうにっちもさっちもいかなくなっているんである。
彼を研究する者の中には、その鉛筆の芯があるから彼の膝は今日も不可解な量の毛をたゆたえているのではないかと指摘する者もいるが、残念ながら今日に至っても事実確認は取れていない。

それは、全く痛くないのだそうだ。
利き腕の手のひらに埋まっているにも関わらず、彼はシャーペンも筆もバスケットボールも、何の問題も無く使っている。
体育の時間にハーフパンツからのぞく大量のすね毛と比較すれば、実に他愛のないセールスポイントであるように思えた。

しかし、僕は彼が一人でいる時に、自分の手のひらをじっと見ているところを何度か見たことがある。
その時は、いよいよすね毛が手のひらにまで侵食してきたのか、と思って通り過ぎたものだが、今思い返してみれば、あの鉛筆の芯を眺めていたのではないかと思うのだ。



人には、小さな棘が刺さることがある。
それはほんの小さな、何か他の刺激があれば気付くこともないような些細な痛みを伴って、僕たちの皮膚の下に潜り込む。
そしていずれ深く深く埋もれて、染みのようになる。

その結果、僕たちはその棘のことに気付かない。
刺さった自分が気付いていなければ、刺した者も気付いていない。

しかし、「ひざげ」はその染みを見つめていた。
痛くもないし、困ってもいない。
しかし、見つめていたのだ。
そして、「たまにジクッとする」と言ったのだ。

こうした小さな小さな棘が、僕たちの心を惑わせる毒を持っている。
それは時として、命にまで達する毒である。

どんな人がその毒に犯されているのかというと、僕は、ほぼ全ての人が犯されていると思っている。
特に人が許せない、劣等感の強い人は確実に、その毒に犯されている。
そしてその原因は、本当に些細な小さな極小の棘であったりするんである。

そして(これが一番大きな問題なのだけど)、その棘を抜くには、一見健全に見える皮膚を傷付け、肉を裂いて、血を流して取り出さなければならない。
それがまた、痛いんである。
傷もまた、すぐには塞がらないんである。

この棘は親知らずのようなもので、一度抜いてしまうと違和感と不快感のない新しい世界が待っている。
僕個人としては、できたらみんなこの棘が抜ければいいのに、と思っている。
棘が抜けるような、そんな曲を書いたり、歌ったりしている。

もちろん、「抜かない」というのも、ひとつの生き方だ。
そもそも多くの人は、小さな棘が刺さっていることにも気付いていないのだから。
健全な皮膚と肉を傷付けてまで、たまに疼く程度の棘を抜くことを選ばない人も多いだろう。

しかし僕は思うのだ。
死ぬまで、手のひらを見つめ続けるのは、きっと気持ちが悪い。
僕は自分から何本も棘を抜いてきたが、その度に気持ちが良いのだ。

そのうち、世界一痛みを少なく棘の抜ける人になりたいと思うようになった。
お節介である。
しかし、それが役に立つこともたくさんある。
そして僕が愛する音楽や言葉には、その力がある。

出来ることなら、僕の音楽や言葉が君の小さな棘に届けばいい。
多少の痛みを引き受ける覚悟を決める、手伝いができたらいい。

そんなことを思って、今日もギターのチューニングをする。
急がなければ。
君のすね毛が膝に届く前に。