「半年後に死ぬとしたら、今日何をする?」という質問に答えていない全ての人に。


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いかにして楽をしようか。
いかにして手を抜こうか。
いかにして少ない負担と労力と責任で給料を貰おうか。

これが、サラリーマン時代の僕が常々考えていたことだった。
実際は、ここまで明確に言葉に出来ていた訳ではない。
手を抜きたがる自分が嫌いだったから、目に見えない事実を受け入れたくなかったということもあって、これらの考えは深度15センチほどのまさに表面化を、僕のボートの舵を狂わせながら、じっとりと漏れ出した石油のように漂っていた。

「半年後に死ぬとしたら、今日何をする?」

という風な、いわゆる「究極の質問」というものがある。
多くの人が聞いたことがあるだろう。
そしてそのうちの80〜90%ほどの人が、「知ってるけど、そんなことを考えてもねえ」と思っているだろう。

隠さなくてもいい。
僕もそうだったのだ。
スティーブ・ジョブズが毎朝鏡に向かって「今日が人生最後の日だったら、今日のスケジュールをこなすだろうか」という質問をしていた、という話しを聞いても、「そういうことをやってるんだ〜」程度のことで、実際に自分でやってみることはなかった。

いや、本当はやってみなかった訳じゃあない。
ただ、普段から自分のことを見ないように、考えないようにする癖が付いていたから、ちょっと考えようとしても、面倒臭くてやめてしまったのだ。
そしてそんな自分も許せなかったから、「知ってるけど、そんなことを考えてもねえ」という言葉を使って、他のロクでもない思考と同じように、押入れの中に放り込んで隠していた。

人というのは、そもそも大変な怠け者である。
「半年後に死ぬとしたら、今日何をする」と考えることは、実際に全神経を集中させることができれば、15分から20分もあれば十分に出来てしまう。
カウンセリングを受ける訳ではないから、お金も掛からないし手間も掛からない。

では、なぜたったそれだけのことをしないのか。
答えは、「面倒臭いから」だ。

信じられないとか、効果の保証ができないとか、そういうことは全て後から付いてくる言い訳に過ぎない。
戦争を吹っかけるような国は、平和的外交よりも武力行使の方が楽だからそうしているのだ。
言葉を尽くし礼を尽くすより、横っ面を叩き伏せた方が、頭使わないでいいから楽なんである。

社会でも、知的労働者と肉体労働者では、賃金に格差がある。
頭を使うことは、体を使うことよりも不可が大きいのだ。
肉体労働者がいけない訳ではない。
ただ、頭を使おうという人がどれほど希少なのかということが、こういうところからも見て取れるということだ。

それと同じように、「半年後に死ぬとしたら、今日何をする」ということを考えるよりも、「こんな自分嫌だなあ」とか、「俺のことを受け入れてくれない社会だよ」と不貞腐れて拗ねている方が、楽なんである。

こういうことを言うと、「やっぱり俺はダメなヤツなんだな」と、懲りずに不貞腐れを上塗りする者がいる。
それがもう、いいようにされているんである。
誰にって、そりゃあんた、「脳」に決まってるでしょう。

手を抜きたがったり、楽をしたがったりするのは、人の脳に備わったデフォルトの機能のようなものだ。
孫正義の脳にも鬱で死にそうな顔してる人の脳にも、同じ機能が搭載されている。
では何が違うのかというと、脳に支配されているか、脳を支配しているか、というところが違う。

鬱になって潰れる人は、「面倒臭いこと」「痛み」自分に「不都合」のある全てのことを避けようとするから、八方塞がりの路地に迷い込んでうずくまるしかなくなる。
成功への道を駆け上がる人は、「面倒臭いこと」「痛み」「不都合」こそが、自分の進むべき方向を照らす導であることを知っているから、それらをどんどんと引き受ける。

感じる不安や、ザワザワとした感覚は、同じだ。
不安を拒むことで自分の身を守っているような感覚にもなるが、結局のところ、不安を受け入れた方が、身も心もしっかり守れるんである。

面倒臭いことをしてみる。
痛みを引き受けてみる。
不都合を許してみる。

一言で言うと、「やりたくないことをやってみる。」。
手始めに、「半年後に死ぬとしたら、今日何をする?」という質問に、全力で答えてみたらどうだろう。