流行りの心理学をカジってみたら、「人は子供のうちに必ず親に対して劣等感を抱くようにできている」なんていう、ちょっと無視できない衝撃的な情報と出会った。
わが身を振り返ってみれば、優作少年10歳前後、自分のお小遣いで友達からメダルを買った時に、母は「それはお母ちゃんとお父ちゃんの汗なんや」と、手元のプラレールを投げつけながらまさにはち切れんばかりに怒ったものだった。
しかし、どうしてそれが貴重なプラレールのレーンを投擲破損させなければならないほどの事態なのか。
僕が友人に払った100円は、母が僕の小遣いとして渡したものではなかったのか。
それは即ち、僕の手元にありながらも、少なくとも母はその100円玉を我が子の所有物と考えてはいなかったということではないか。
僕が友人から受け取ったメダルに100円の価値があると信じた、ということを信じられないのなら、どうして母は僕にお金なんて難産の権化を渡したのか。
もはや大人になった今、その矛盾は明確である。
しかし当時の僕、一人の日本人としての経済的自立ができない優作少年10歳は、ただただお金を手に入れるのは、母が涙を流すほどに辛く苦しいことなのだということであり、おいそれと他人に渡してはならんものなのだという「母の価値観」を、嗚咽を漏らしながらも飲み込むしかなかったのであった。
そうしなければ、僕は母に突き放されてしまう。
それだけは、絶対に嫌だったのだ。
まだ見ぬ我が子が同じことをした時、僕は何を思い何を言うか。
脊髄のヒダ裏に潜伏する恐ろしい命題に対する回答は見逃していただきたい。
ただそのような経験を重ねるうち、どうしても精神の成長に肉体の成長が追いつかぬヒトという生き物は、もどかしさの渦中に最も近くにいる人間、つまり親(特に母親)の価値観に染まらねば生きていけない(生かしてもらえない)現実に直面するのだという。
そこで親子の間にどのようなコミュニケーションがあったのか、親の未熟の程度によって、言葉によって、態度や表情によって、子供の劣等感の度合いや傷の付きどころが変わってくる。
そしてその劣等感や傷、総称するなれば「心の穴」が、まさしくその人物をその人物たらしめる大きな要因となって先の人生を大きく左右する。
これがミーハー的にかじった「嫌われる勇気」というアドラー心理学の本で出会った言葉であった。
そしてまさしく本日、麻生区の区役所で転入届を提出すべく待機している最中に読破した「すべてはモテるためである」というAVビデオの監督が描いた本には、さらに恐ろしいことが書かれていた。
「セックスとは、お互いの心の穴の触り合いである」
この言葉には、いっそゾッとするものがある。
この前提に従えば、「物足りない」というのはつまり、「あなたとのセックスでは私の心の穴は埋まっていない」ということになってしまうではないか。
それはまさに、わが「心の穴」の一番奥のやらかい場所(”穴”の奥に場所なんてものがあるのなら)を、ぐしゃりと握りつぶされるに等しい事実だ。
満たされてくれなければ、満足してくれなければ、お眼鏡に叶わなければ、嫌われてしまう。
嫌われたら、突き放されてしまう。
突き放されては、生きていけない。
優作少年10歳は、母から突き放されては生きていけない。
わが精神構造はまるで近代高層マンションのお手洗いのように、用を足した子供が立ち上がると同時に廃棄物を水圧処理するように、誰かから嫌われる、あるいは、嫌わられたという実感を持つことを、極端に恐れるのだ。
そんなだから、「実は水洗トイレの構造はだね・・・」なんて根っこの話しを持ってこられたのだから、当方目からウロコボロボロ現象でしばらく前が見えなくなってしまった。
そんで、気付いてしまった。
わがトイレを見よ。
非近代高層マンションであるわがトイレは、レバーを引かなければ水が流れない。
そこにはんもう見るのもウンザリするような様々な色々が、あらゆる不快の形状をなしてどどーんと鎮座しておられる。
目下の目標は、一刻も早くそれらの詰まり物に星に還って頂き、肥料的なものになって七色の草花を芽吹かせることだ。
誰かのトイレの流し方を考えている場合ではない。
「心の穴」は、穴ではない。
「傷が集まって穴になる」と尊敬すべきAV監督は仰っていたが、その文学的表現はとても美しく魅力的なのだが、彼の言わんとするそれはきっと皮膚の欠落たる「傷」ではなく、出し損ねた「膿」だと思うのだ。
膿が集まるのだから、やらかくなる。
膿が集まったところは触ると痛いから、人目に触れないように服や鎧で隠そうとする。
そうやって自分でも忘れちゃうくらい一生懸命に隠して、じゅくじゅくに膿んじゃった場所を、「心の奥の一番やらかい場所」と呼ぶ、というのは、どうですかねスガさん。
トイレの話しをしたり膿だと言ってみたり、久しぶりの記事が随分ときちゃない感じになってしまったが、これもまた僕にとっての水洗作業であるので、どうかご容赦願いたい。
あと、まるで母が諸悪の根源であるような書きっぷりに見えるかもしれないが、そのいわゆる「母の呪い」を「解く」ことがわが使命でもあるので、断じて母は悪くない。
逆説的だが、「解く」ためには「呪い」が要るのだ。
「呪いが解けた状態」ではなく、「呪いを解くこと」が、やるべきこと、経験すべきことなのだ。
というか、そういうことをしちゃうような「呪い」を、母も持っているのだ。
先祖代々引き継いだ、大切な「呪い」である。
わが血縁に引き継がれし鎖をこの手で断ち切れるのだから、なんかこう、勇者めいててちょっとええ気持ちではないか。ふはは。
ということで、僕は自分が価値がある、楽しいと感じたことに、お金を使ってよろしい。
また、苦でなく楽でお金を生み出してもよろしい。
ただしこの場合の「苦」は「苦痛」ではなく「苦労」であり、「楽」は「楽チン」ではなく「楽しい」であることが前提である。
ドヤ顔で偉そうなことを言っているけれど、まだまだ汚物は山の如し。
めくるめく便器との邂逅は、まだ遠い。
初めて見えちゃった時、感激のあまりキスしちゃったら、どうしよう。
ううむ、お下品でした。