夏になる少し前、妻とチワワ達の散歩をしている時に、学生時代の夏休みについて話しをした。
その時妻が
「夏休み前には友達のノートを写させてもらうのが大変やった」
と言っていて、不思議な気持ちになった。
僕はノート提出をしたことがないのだ。
それは僕が反骨精神に満ちた学生だったということではなくて、通った学び舎は小中高と、ノート提出の文化がない学校だった、というだけのことである。
僕「なんでノート出すの?」
妻「さあ。先生がチェックしてたから、ちゃんと授業聞いてたか的なことを見てたんとちゃうか」
僕「聞いてたか的なことの結果なら、テストの点で出てるよね。授業よりも先のことしてたりする人もいるし、本当に話しだけ聞くだけで点数取れる人もいるし、なんでノート出すんだろ?それこそ、友達のノート写すようなヤツが出てきて、本末転倒じゃない?意味なくない?」
妻「知らん。滅びろ」
会話2ターン目にして滅びの道を示された僕だった。
それは、生徒の教養を高めることよりも、決められたルールを守れるようになるトレーニングとしての、つまり前時代的教育体制の残骸なんだろうか。
それとも他廃的な宗教団体のように、「我が校の教育方針は世界一ィィィイイイイ‼︎よってェェエエエ‼︎その他の思考プロセスなど、ん必要なぁぁぁあああし‼︎」的なことなんだろうか。
なんだか否定的なことしか思い浮かばなかったので、もうやーめた、という意味も込めて、妻にこう言った。
僕「ちなみに奥さん、点数はとれてた?」
妻「なんでまだ人の形してるの滅びて早く」
どなたか『恐妻に許しを請う方法』か『痛くない滅び方』の授業のノート、貸していただけませんか。