心でっかちな時代だからこそ、動きを整えようじゃないか

妻に呼ばれると緊張する。怒られる心当たりはいくらでもあるのだ(リビングに服を脱ぎっぱなしにしているとか、トイレの電気を消し忘れているとか、冷蔵庫の徳用ウインナーをこっそり食べていたのがバレた、など)。

緊張をすると僕の体はただちに首をすくめる。背中側の筋肉が肩を引き落とし、圧迫感を感じる。体の動きの精度が下がり、どうにも不快な感覚になる。

もたもたしていると妻が「牛乳買ってきてって言ってたよな」と言い、新たな罪が露呈する。「すみません、今すぐ買ってきます」と言うと「もういい」と突き放され、立つ瀬がなくなった僕はとりあえず大河(チワワ/オス/白い/小さい/わがまま)を抱き上げて精神の安定をはかる。

心の緊張と体の緊張はリンクしている。どころの話しではない。心の緊張とは、体の緊張そのものである。逆説として、体の緊張は心の緊張である、ともいえる。いやいや実は、心よりも体が先なのだという説もある。

早稲田大学名誉教授の春木豊氏は著書『動きが心をつくる〜身体心理学への招待〜』の中で、こう述べている。

そして環境にうまく適応するために 、動物がやってきたことは 、環境とのダイナミックな関係の中で 「動くこと 」であった 。

進化の過程で見ていくと 、動物は大脳によって 、環境に働きかけて適応したのではなく 、環境が動物に働きかけて行動を引き起こし 、適応してきたのである 。そして適応した結果 、その行動を保存して 、次に同じ事態が生じたとき 、能率よく対応するために 、記憶の器官である大脳を発達させてきたのである 。

つまり環境に対応する行動 (動き )が大脳を発達させてきたのだといえる 。このことから 「始めに動きありき 」で 、その動きから心が発生したのだと考えることができる

—『動きが心をつくる 身体心理学への招待 (講談社現代新書)』春木豊著

つまり、動物は動きの記録メディアとして脳を発達させ、積もり積もった動きの記録が記憶となり、記憶が心となる、ということだ。

いやいや、心とはもっと高尚で、神聖で、神秘的で、体という俗物とは別格の存在でなければならないという心至上論もあるかもしれない。

それはそれでまあ別にいいのだけど、なら空間と酸素を奪い合うような満員電車の中にいて不快な気持ちになるのは、修行不足だということだろうか。だとしたら、ちょっと気分が落ち込んだ時に体を動かすとスッキリすることがあるのはなぜだろうか。

この世には体しかない、とまでは言わない。しかし心に関する情報が乱立する現代において停滞感を感じているならば、体を通して心を見つめるというプランが、いわゆるブレイクスルーにつながることは多いかもしれない。

僕たちは常に動いている。動きは大なり小なり僕たちに体感覚としてフィードバックを与えてくれる。今どんな体感覚と一緒にいるのかが、今どんな気分なのかということにつながる。それはとても自然なことだと思えないだろうか。

動きを整えることは、心を整えることになる。仏教や神道の儀式、様式の中にはそのエッセンスが存分に含まれているし、スポーツにおいてもルーティン的な動きが心を落ち着ける効果があることは当たり前に語られている。

ところが、カウンセラーやコーチのような心を整える専門家は大勢いるのに、動きを整えられる人はとても少ない。アレクサンダーテクニークのトレーニーとして何らかのプランを世の中に提示していきたい気持ちは大いにあるので、いろいろ試していきたい。

そしてそんなことより、牛乳だけでなくプリンも買い忘れていることに妻がいつ気付くかを考えると、不安で首と背中が緊張する。先ほどからせっせと動きを整えているが、だからといって牛乳とプリンが冷蔵庫の中に顕現するわけでもない。

あ、チューブわさびも買い忘れてる。やっぱりちょっとスーパーに行ってきます。