僕たちに残された日々はいつだって短い

仲間のミュージシャンがFacebookで、昔からお世話になっていたお店が閉店するのだと、そのお店の投稿を引用しつつ話していた。

僕は行ったことがないお店なので、その風景や活気を知ることはもうないのだけど、引用されていた閉店のお知らせをする投稿の「残り少ない営業日を大切に過ごしていきます」という、この一文が胸にささった。


むすっこが生まれてからこっちかなりの頻度で、彼とのお別れを思ってきた。普通に考えれば僕が先に死ぬことになる。僕が死んでからも、彼の人生は続く。笑い、泣き、挑戦し、失敗し、挫折し、立ち上がり、成長し、成功するだろう。

彼がオッサンになっても、ジジイになっても、見守り続けたいと思う。もし僕たちに肉体ではない、それでいて僕という個であり続けられる何かがあるのだとしたら、それも可能だろう。

しかし、笑顔のむすっこを抱きしめたり、泣いているむすっこに声をかけたり、手を繋いで遊びに出かけたり、好きな子の話しをしたり、仕事やお金の話しをしたりすることはできなくなる。

人生100年時代である。彼が大人になる頃には、200年とか言われているかもしれない。仮に彼と僕が肉体的にお別れをするその日が今日から100年後だとしても、足りない。全然足りないと思う。あとたった100年しか、という気持ちが湧き上がってくる。


顔を上げると妻がいた。妊娠中に大きくなったお腹がなかなか戻ってくれず、せっせとチワワ達の散歩に精を出している。

故郷を思えば、兄弟と両親がいる。父方の祖父も健在だ。友だちがいて、恩師がいて、街や駅や職場ですれ違う人々もいる。

もちろん嫌いなヤツもいるけれど、思い出されるのは好きな人の顔ばかりである。彼らと、彼女らと共に過ごせる時間もまた、短い。何年あっても足りないのだ。


僕は毎日分単位で自分の行動のログを残している。その日やる予定のリストを立てて、それらをクリアしながら日々を過ごす。締め切りの日に向かって作業を積み重ねていく。家族との時間を積み重ねていく。友人との時間を積み重ねていく。

そうして一日の終わりにリストを見ると、必ず何か取りこぼしがある。タスク管理をするようになって一年以上たった今、悟っている。時間はいつだって足りない。時間は余ることがない。今日無駄にした1時間を死に際に振替することはできない。僕たちに残された日々は、いつだって短いのだ。

残り少ない日々を大切に生きる。34歳になったばかりの若造だけど、自分に言い聞かせていこうと思う。