曲先、詞先、という言葉がある。歌ものの楽曲を作るに当たって、曲から先に作るのか、歌詞から先に作るのか、ということである。
現在世の中では曲先の作曲方法が圧倒的に多いと言われている。それは作曲家と作詞家が別人物であることが多い、ということもあるが、自分で曲を作り詞を書くシンガーソングライターであっても、同じであるらしい。
とは言っても、必ず曲先でなければならない、という訳ではない。シンガーソングライターの場合、楽曲の製作は基本的にひとり作業だから、最終的に良い曲が生まれてくれれば順番などどうでもいい。たとえば良い歌詞のワンフレーズを広げて曲にしてみたり、ストックしていたメロディーにどんどん言葉を当てていったり、という風に、その時々で色々な作曲技法が使って良いのである。
そしてその上で、僕は詞先の方が圧倒的に好きなんである。
もちろんメロディーやコード進行から音楽が生まれることは多い。特にここ数年間は、曲が先か、フレーズと歌詞が同時に出てくることがほとんどであった。それでも、詞先が好きなんである。それは、僕が日本語が好きだから、というところに由来する。
僕は元々文章を書くことが好きだ。高校時代にユーモアエッセイ風の日記を、当時はブログなんてものがなかったから、ノートに書いてクラスの友達に読んでもらうくらいには好きだ。それは本当に、どんな文章が書けているのか、ということはどうでもよくて、文字を起こす作業そのものが好きなんである。そして曲先という作曲方法は、文章を制限する技法なんである。
当然、制限された音数の中でどのように文章を構成するのか、という喜びはある。セクションごとの展開や、韻の踏み揃え崩し、様々なテクニックや視点の変化を活用して決まったメロディーの中に文章を流していく作業は、全貌の分からない化石を少しずつ発掘することに似ている。頭から取りかかったことでいちはやく全体のシルエットが理解できるかもしれないし、腰の辺りから取りかかったことで一体それが何の骨なのかが見えず、苦労することもあるんである。
それでもやはり、詞から曲を作ることが好きだ。
例えば多くの方が思い込んでいるところであるが、そもそも1番のABサビ、2番のABサビ、間奏とブリッジを挟んでサビを演奏してエンディング、というよくある楽曲構成で曲を作らなければならないというルールは、どこにも無いのだ。メロディーは言葉以上に抽象的で、それ故に自由である。そして僕は日本語を愛している。だから、自由に書いた文章に自由な発想のメロディーやコード進行を見い出してゆく方が、僕にとっては自然なことなのだ。
昨夜、僕にとって特別な曲になってくれるだろうな、という楽曲の取っ掛かりを掴むことができた。それはサビの歌詞とメロディーが同時に出てきたのだけど、そこだけを一旦置いておいて、他の部分は縦書きで文字数を無視して好きなことを思うように書き続ける、という製作方法を取った。
実はこれ、僕が初めて楽曲を作った時のやり方、そのまんまなんである。
僕が初めて自分の曲を作ったのは14歳の頃だ。当然、何も知らない。語彙も絶望的に少なかったし、言いたいことなんか無かったから、形だけの作詞作業だった。
ただ、無知故の正しさというのは、確実に存在する。
今更縦書きでほとんどメロディーの無い状態で作詞をすると、驚くほど文章とまっすぐに向き合える。何が言いたいのか。どう見えて欲しいのか。そういったアプローチ的な部分と、結果として紙面に書き出される文章の距離が、極限的に”ゼロ”に近付く。
そういった自分と文章が一体となった感覚と、今までメロディーで縛り付けられていたことから解放された喜びもあって、昨夜は大変に筆が進んだ。改行のタイミングもあって、レポート用紙3枚という文量である。
そして今日は、この試作状態の歌詞を最低10回は書き直す作業をする。
まだ、僕はこの歌詞世界を掴み切れていない。それに、ちょっと良く見せてやろうという欲もある。それらを何度も書き直すことで研ぎすまし、洗練させてゆく。メロディーを当てるのは、その後である。別にメロディーが当てはまらなくても良いとさえ思う。
昨夜、そういったプランにうっとりと思い馳せていたら、彼女様からLINEでメッセージが届いた。
彼女様「エスっていうドラマの主人公とスナイパーの相方が3次元のくせにすごいキュンキュンさせてくるんやけど、この前の最終回で公式がとんでもない爆弾を落としてきて、もう主人公の幼なじみの女の子は”一見普通の恋愛シーン”を演出するためだけに投下されたデコイやと思うんやけど、ああでもやっぱり一號たんと蘇我ちんは結婚するんやハァハァお祝いのケーキ作ろうハァハァ。」
僕「バルス」
彼女様「ホモォ////////」
まだまだ文章に変換し切れない切ない思いが、この胸の中に沢山詰まっている。できることなら、墓場に入る前に捨ててしまいたい。