幸せのゴボウ。


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音楽を聴くときは、耳に意識を集中してはいけない。
リラックスして、心をフラットなところに置いて、そこで自分の中に注がれる音をただ静かに観察する。
すると、雑念まみれで聴いていた時とは比べものにならない量のサウンドや言葉がするするっと奥まで入ってくるものだ。

この「心をフラットなところに置く」というのは、あらゆる場面で重要なテクニックだ。
よく「視野が狭い」と言われる人たちは、往々にしてこれが出来ていない。
物事に何らかの意味付けをしながら受け取るクセがついているのだ。

例えば僕の場合だと、どんな音楽を聴いていても自分よりも劣っている部分を必死で探していた時期があった。
自信の無さを、他人との比較で埋めようとしていたんである。
必死で自分よりも劣っている部分を見つけて安心しようとしていたんである。

しかし、それをしようとすればするほど自分よりも優秀な部分が耳について、大変に苦しい思いをする。
それを無視して「あいつは○○が××だからダメだよ」などと言っていていも、それはそれは息苦しい。
終いには、自分の作品を作っていても他の人よりも劣っている部分が見えてきて、何も作れない、楽器を触るのも辛い、という状態になる。
自分から地獄の釜に飛び込んでいるのに、そのことに気付いていない。

よく言われる話しだけども、他人と何かを比較している内は、僕たちは幸せにはなれない。
生まれながらに勘が鋭く「才能がある」と言われる人は実在するが、そういう人と出会った時は、神の采配で素晴らしいサンプルが目の前に現れたのだと思えばいい。
眩しい光に目を閉じず、一体何がどう輝いているのか、自分が輝くためにはどういった部分が参考になるのか、じっくりと見つめるとよい。

人との比較クセを辞めるために、ひとつ、どうしても覚えておきたいことがある。
それは、

自分の人生で起こることは、全て自分の人生を素晴らしくするべくして起こっている

ということだ。
ハッキリ言って、実際そうなのかは分からない。
しかし、目の前の出来事が絶望の種だと信じることも、希望の種だと信じることも、方向が違うだけでやっていることは同じである。
幸も不幸も思い込みなのだから、幸せな思い込みをして、ハッピーに生きればいい。
わざわざ自分が苦しい生き方を選ぶというのは、いわゆるひとつのアレだ。変態。

「才能ある人との出会いも、愛の無い人の攻撃も、辛い経験も嬉しい経験も、今この瞬間に起こっている出来事全てが自分の人生をもっと良くするために起こっている」ということにする。

最初は言葉だけでもいい。
何年も掛けてせっせと育んできた不幸思考は、1日は2日では抜けない。
まあ、1週間くらいあれば抜けてくるんだけど。

ともかくとりあえずそういうことにして、じっと考えるんである。
その場では辛くても良い。
後から一手間掛ける。

例えば僕は、たまに嫌なヤツに出会うと、自分の周りの人がいかに良い人ばかりなのかということを噛み締めて喜んだりするんである。
そして、そのことに気付かせてくれたのはその嫌なヤツであったと気付くと、やはりこの世は僕のために回っているのだと、ただただ確信を深めるのだ。

この一手間を惜しんで、人は不幸になる。
落ち目の自分という幻想に取り付かれ、自尊心を守るために人との比較に走る。
渦巻く劣等感をひた隠すために過激な攻撃をしたり、自分を傷付けたりする。

この一手間を惜しんではいかんのだ。
根本的に、人はネガティヴなんである。

「今この瞬間に起こっている出来事全てが自分の人生をもっと良くするために起こっている」

というのは、何度も言うが、そういうことにするという意思が必要なんである。
ゴボウも梅もレモンも、そのままではとても食べられなくても、何かしら一手間掛けると美味しくる。

家の庭にゴボウが生えているのなら、いかにそれを美味しく食べるかを考える。
隣の家の庭にトマトが生っていると言って文句を言っていても、ゴボウは美味しくならない。
美味しいゴボウ料理が作れるようになったら、隣のトマトと交換してもらえたりもするのだ。

手を抜かない。
これ、大事。

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