やりたいこととか好きなことって、我慢したり着手しないようにしてると、分からなくなっていきます。その我慢も無意識でやってたりするんで、
「ああ!これがそうだったんだ!」
的アハ体験を経ないと、自分の中で何が起こっているのか全然ピンときません。ずっと子どもの頃まで深く振り返っていくと原初の我慢とも呼べる体験と出会えるのですけど、それをすればいいと言われて出来る人も少ないものです。
何かいい方法はないか。そんなことを考えていたら、ピンときました。アハ体験を経ず、自分を振り返ることもなく、やりたいことに繋がっていく方法が。
少々気合いが要りますが、シェアをするのでピンときた方は試してみてください。
やりたいことと出会うために、自分の「評価と判断」を無視する
ものすごーく乱暴に言い換えると、「目の前にやってきたこと全てに手を出す」というルールを持つということです。
ポイントカードの加入キャンペーンをやっていたら申し込んでみる。
ウォーキングがいいと聞いてみたら一駅歩いてみる。
ふと思い出した友達に連絡を取ってみる。
目に留まった部屋の隅のホコリをサッと拾って捨ててみる。
神社で10000円をお賽銭するといいらしいと聞いたからやってみる。
エトセトラエトセトラ…
そういうことを毎日やっていると、あなたの中に、その物事に取り組んだ時の感情や気分が沢山記憶されていきます。
「こうした時はこんな気持ちになった」
「あれはやってよかった。すごく楽しかった」
「あんなこともう二度としない」
この「感情や気分」のデータが一定値を超えると、勝手にやりたいことが分かるようになります。「ああ、これは楽しくなる感じのやつだ!」ってな具合で、勘が働くようになるのです。
これを実践するためには、目の前にやってきた物事に手を出す前に脳内で生まれる「評価と判断」を、完全に無視することが大切。だって、その人がやりたいことと出会うことを邪魔しているのは、まさに「評価と判断」なのですから。
その「評価と判断」は本当に自分のものか?
あなたがやりたことが分からないのは、「評価と判断」が、やりたいことに着手するのを妨げるから。その結果、「感情や気分」のデータが溜まらないからだと書きました。
ええ、そんなことではあなたは納得しないでしょう。だってあなたは(もちろん僕も)、冷静に、客観的に、論理的に、これはやる価値ナシと「評価と判断」をしているはずなのです。どうしてそんなことが言えるのでしょう。
はっきり言えるのは、誰しも「評価と判断」をするために何らかの基準を持っているということ。そしてほその基準は、かなりの高確率で「親が納得してくれるかどうか」というものである、ということです。
僕らが子ども時代にやりたいことが出来なかった時って、親が「ダメ」と言ったからだったりします。逆に、親が「いいよ」と言ってくれれば、やりたいことは叶ったのです。
やりたいことが叶うかどうかの基準は、親が「ダメ」と言うか「いいよ」と言うか。その延長線上で「評価と判断」をし続けている限り、いつまでたっても自分が本当にやりたいことに辿り着くことはできません。
そして親がいるから生きている僕たちはいつだって、自分の「評価と判断」が、頭の中に住まわせた幻の親の顔色を伺って下されているかもしれないことを、疑っておくべきなのです。
やりたいことは「感情と気分」が教えてくれる
ごたごたと長らく話してきましたが、そんなことしなくったっていいんです。「やりたいこと」という言葉が「評価と判断」に由来するものなのか、「感情と気分」に由来するものなのかは、見れば分かります。
「やりたい」というのは、「感情と気分」そのものです。「評価と判断」は原則として結果に対して下すものなので、「やってよかった」「やらない方がよかった」的な言葉になります。
順番が違うんです。「感情と気分」が先。「評価と判断」が後です。そして目の前にやってきたこと全てに手を出すというのはつまり、自分の「感情と気分」に従う練習をしよう、ということなのです。
そんなことを繰り返して、僕たちは「やりたいこと」に出会います。荒療治ですが、爆発的に世界が広がります。視界が開けます。何か行き詰まり感を感じた時には、ぜひ試してみてください。
レッツ片っ端。
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