息子が生まれてから、日々変化する彼の仕草と、乳を飲ませる妻の所作、初孫を手放しに可愛がってくれる義理の両親の姿など、たくさんの素敵なものを見ています。
妻のお腹に息子がやってきたと分かった日に未来だったものが、現実として目の前に在ります。今日の未来もまた、いつかの現実になるのでしょう。だからこそ、僕は「死」を想わずにはいられません。
僕が恐れているのは、死が僕と、僕の大切な人とのつながりを絶ってしまうのではないか、ということについてです。死に伴う痛みに対しては単純な恐怖を感じますが、つながりの断絶に対しては深い絶望を感じます。
本当に死は人と人とのつながりを絶ってしまうものなのか。死に向かって生きる僕たちはどう生きればいいのか。今夜はあなたと語り合いたいのは、そんなお話しです。
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死が大切な人とのつながりを分かつと思うと、とてもさみしくて、とても悲しい
息子が健やかに生き、育っていくことを願っています。そして同時に、息子には死んでほしくないとも願っています。
妻にも、ほかの家族のみんなに対してもそうです。大切な人たちが健やかで、生きる幸せに包まれていてほしい。あわよくば、永遠にそうであってほしいと、心からそう思います。
その願いを思い出すとき、死は僕にとって悲しいものです。今生きている大切な人たちがいつか死んでしまうことを思うと、胸が締め付けられます。僕自身が死んで、その時にまだ生きている大切な人たちと言葉を交わしたり、触れ合ったりする時間がなくなることを思ってもまた、胸が苦しくなります。
人が死ぬことで、その人と関係性が断たれることがさみしい。僕が死ぬことで、それ以降経験できたかもしれない大切な人たちとの幸せな時間が失われることが悲しい。なのに人は皆死ぬといいます。これを絶望と言わずして、何と呼びましょう。
けれどそういえば、僕は死んだ人とのつながりを感じている
絶望を感じて打ちひしがれていると、いつも決まって僕の肩に触れてくれる人がいます。10年ほど前、僕が20代前半の時に亡くなった曽祖母です。
僕は曽祖母のことを「ふーばー」と呼んでいました。古い方のおばあちゃんやからふるばぁって呼ぶんやでと、ふーばー本人が言ったのだそうです。なのに小さい頃の僕はろれつが回らなくて、なんとか言葉にできた「ふーばー」が定着したのだと、嬉しそうに教えてくれました。
ふーばーはもう居ません。死んだ人です。けれど、僕はふーばーを失っていません。むしろ、生きていてくれていた頃よりも深いつながりを感じています。
僕が幸せなとき、ふーばーは少し離れた場所で優しく微笑んでいると感じます。僕がつらいとき、ふーばーはそっと隣りに来て、かつてそうしてくれたように、しわしわの手のひらで肩を撫でてくれているように感じます。
死は人と人とのつながりを分かつものではなかったのでしょうか。大切な人との″これから″を完膚なきまでに奪い去るものではなかったのでしょうか。だからこそ僕は、死はさみしく、悲しいものだと感じているのではなかったのでしょうか。
「他者の死」は新しい関係性のはじまり
死を「他者の死」と「自分の死」に分けて考えてみるといいかもしれません。
僕がふーばーとの繋がりを感じていることは、「他者の死」のケースです。少し乱暴な言い方ですが、死んだ人のことをどう解釈しようとも、それは生きている人の自由です。ふーばーに対して僕が一方的につながりを妄想し続けていると考えれば、状況は説明できます。
そうすると「他者の死」のケースにおいては、つながり方はどうあれ、死んだ人とのつながりの感覚を途切れさせずに(あくまで自分の中だけに)残し続けることは可能そうです。
では、「自分の死」だとどうでしょうか。この場合、自分が死んだ後にも、大切な人たちとのつながりを感じ続けられるかどうかが重要なポイントになりそうです。
「自分の死」を通して脳が失われても、僕は僕でいられるのか
大切な人たちとのつながりを感じ続けるには何が必要でしょうか。仮にその感覚を得るために脳が必要だとしたら、「自分の死」の後には脳が機能を停止しますから、つながりの実感は失われることになります。
では、大切な人たちとのつながりを感じるために、脳やそれ以外の物理的な身体の機能が全く必要ないとしたらどうでしょう。僕が死んでも僕として存続し続けることができる。それはとても素晴らしく魅力的に思えます。僕は僕を失わなくてもいいという、安心感が生まれます。
しかし、そんなことがあり得るのでしょうか。時間や空間、感覚のようなあらゆる情報の整理と保管、様々な事象の評価やパターン化、果ては創造性の発露に至るまで、脳が担っている機能・役割はあまりにも巨大です。
これらの機能を失った後に、何が残るのでしょうか。仮にこれらを失った後に何かが残るのだとしても、残ったそれは本当に僕だと言えるのでしょうか。
魂は本当にあるのか問題と、魂って何なんだ問題
イェール大学で哲学を教えているシェリー博士は、著書「DEATH」の中で「私は魂は存在しないと考える」と明言しています。しかし、魂が存在しないことを証明してはいません。
僕は「魂は存在する」と信じています。それは「自分の死」を経て身体と心(脳のはたらき)が消え失せても、魂が残ることで僕自身が消え失せてしまうことはないという意味です。もちろん、魂の存在を証明することはできません。
仮に魂が存在するとしても、魂が心と同様に何かを見たり感じたりすることができるのか、そこに僕という人格は存在し得るのかという疑問が残ります。脳の助けなく、僕は僕でいられるのか。そうあって欲しいと思いますが、やはり″今の僕″のままではいられないだろうと想像できます。
そして残念ながら、魂の存在や性質について、その論理的な根拠を示しながら語ることは僕には出来ません。せめて誰かに示せるような根拠がなくても、僕自身がスピリチュアルな体験をしていて、自分自身の魂に触れることができればそれで十分満足なのですが、そういった経験はありません。
しかし、根拠が示せないからその物事が存在しないというのは合理的ではありません。ならば話しは簡単で、ここから先は「信じるか信じないか」の世界です。「意思」の話しです。「選択」の話しになるのです。
自分の意思で信念を選択して、育てる
いつか死ぬ僕は、やはり最後は自分の意思で「何を信じるのか」を選ぶこと(どんな「信念」を持つのかを自分自身で選択すること)が大切だと感じます。
ここで言う信念とは、「自分の外側の出来事に揺さぶられても、最終的に戻ってくる考え」のことです。
僕たちは嬉しいことが続くと自分は幸せだと考えます。悲しい出来事が立て続けに起こると自分は不幸だと考えます。
しかし、たとえば「自分はいかなる時も幸せだ」という信念を持つことができれば、悲しい出来事が立て続けに起こって自分の幸せが見当たらない時にも、「想像もできないほど自分は幸せなのだ」ということにしてしまえます。その結果、自分の不幸を嘆く時間が大幅に減ります。
僕たちは気分で考えの変わる生き物です。だからこそ「最終的に戻ってくる考え」を持てたとき、外部の刺激にいたずらに振り回され続けない、しなやかな芯の通った生き方ができるのです。
僕は意図して、自分の意思を持って、『魂は存在して、「自分の死」を経てなお生き続ける大切な人たちと、先に死んだ大切な人たちとのつながりを感じ続けられる』という信念を持ちたい。
あなたは、どうでしょうか。
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