おしどり夫婦の離婚裁判と、壁ドンされたい女。


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高橋ジョージ氏と三船美佳さんの離婚裁判が世間を騒がせている。
おしどり夫婦のイメージを一手に引き受けていた二人だけに、世間が受けたショックは決して小さくなかったはずだ。
僕個人はタレントとしては二人ともが好きだから、ショックというほどでもないが、やはり残念な気持ちがあることは否めない。

男と女の機微は実に深く、実にシンプルである。
好きにならなければ一緒にはなれないが、好きになってもらわなければ一緒にもなれない。
一度好きになったからといってずっと好きでいるとは限らないし、もっと好きな人が現れる可能性はいつだってゼロではない。

浮気をする方が悪いというのが世間の正論ではある。
奥さんの出産後に旦那が浮気をするという話しをよく聞くし、それは絶対悪のように語られている。
しかし長らくボディタッチが出来ないことに耐えた上に出産後は子供ばかりを気にかけられたら、それは旦那も寂しいのではないか。
それを悪だと言うのなら、旦那の寂しさはどうしたらいいのか。

昼顔というドラマが流行った時に主婦層の浮気心が燃え上がったと聞くが、それは当然で、みんなイイ男とドキドキウフフしたいんである。
僕だって、きれいなおねいさん達とラブ・ハリケーンを巻き起こしながら47都道府県を駆け抜けたい気持ちは常に抱いている。
そんな可愛らしい欲をかなぐり捨てて、正論で付き合う男女の、何が美しいのだろうか。

片方の心が離れたのなら、もう片方はどれほど願ってもそれを取り戻すことはできないのだ。
今回の高橋氏のように、元の関係に戻ろうと戦うことは別にいいのだけど、その「元の関係」が嫌だったから、今このようなことになっているのだ。
仮に「三船さんは怪しげな宗教団体に引き込まれていたのだ」などというトンデモ仮説を立ててみたとしても、その宗教団体の教えよりも旦那の方が好きなら、「別に」の一言で蹴っ飛ばして終わっていたはずなんである。

世間の勘違いのひとつに、一度パートナーとなった男女は互いを裏切ってはならない、というものがある。
しかし上述のように、人の心は決して縛ることができない。
欲もあれば性もある。
パートナーに

「ずっと俺を/私を好きでいてね」

などと言うのは勝手だが、自分が太って臭くて面白いことも言えず相手を許さず感謝もしない人間では、そんなことが叶うはずもない。
結婚という契約、付き合うという契約をしていようがしていまいが、人が人を好きになるのは、「相手が魅力的だから」、この一点のみの理由である。

人には自由意志がある。
その自由意志は常に、「魅力」のある方に向かうようにできている。

何に「魅力」を感じるのかはその人次第。
どんな「魅力」を持っているのかもその人次第。

人間関係という無限の組み合わせの中では、全てが不確定である。
ただひとつ言えるのは、「魅力」は、磨かなければ光らないということだ。

ところで、高橋氏は仮に今回の裁判で勝ったとして、どうするつもりなのだろうか。
自分と別れたがっている女を捕まえて、どうするつもりなのだろうか。

双方が本音を語っているのだとしたら、何も分かっていないのは明らかに高橋氏の方だ。
しかし、それでもやはり、僕たちには分からないのだ。
彼らは少し前まで、芸能界一のおしどり夫婦だったのだ。
僕たちは勝手に、そういう風に彼らを見ていたのだ。

このことから僕たちが得るべき教訓はやはり、「人の心は分からない」ということである。
テレビの画面に映らなくても、僕たちは人を勝手なイメージで見ている。
問題は、僕たちの中にあるのだ。

夜の公園でチワワ2匹を走らせていたら、いつになく神妙な顔の彼女様が口を開いた。
まだ冷たい冬の匂いを孕んだ風が痩せた枝を揺らすと、小さな足音は簡単に消されてしまう。
1匹が足を止め、ウンティングの構えを見せた、その時だった。

「やっぱり私、斎藤工に壁ドンされたい」

問題が、自分の中に無いこともあるのかもしれない。

これを見たらしい