破滅の道の3丁目、イケメンの手遅れ。


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ラクな道を選んでもロクなことがない。
先日ラクをして痩せられると言うから食事から米を抜いてみたところ、「米が食べたい」という欲求と戦うことに苦労した。
その結果、僕は痩せたいという欲求に打ち勝つという意思の強さを垣間見せ事なきを得たのだが、やはりラクな道が苦労の道であると、その確信を深めた次第だ。

どうしてラクな道は苦労の道なのか。
それは、ラクなことは決して楽しくないからである。

例えば僕の仲間には一節歌うだけで観客を引き込んでしまうくらい魅力的なヴォーカリストがいる。
彼女は数多くのヴォーカルを聴き、その発生や心の在りようを見つめ、自分なりの解釈をして、自らの歌唱に落とし込んでいる。

まあつまり、鍛錬と研鑽が日常になっているんである。
それは大変なことではあっても、苦労ではない。
それはラクなことではないが、楽しいから続いている。
そしてそれは彼女にとって、息をするほどに当然の行為である。

「楽しいことをする」というのが時代のテーマである。
カウンセラーやスピリチュアリストの業界が賑わっているのも、物質の時代が終わりを告げ、精神の時代が始まったからであろう。

では「楽しいこと」とは何かというと、そんなことは僕には分からないのだけど、少なくとも「ラクなこと」ではないと断言できる。

人が何かを手に入れようとしたなら、そこには必ずリスクとコストという「負担」が掛かるものだ。
「ラクなこと」というのは、この「負担」が小さそうに見えるもの、ことを言う。

そう考えてラクそうな仕事を選ぶと、「給料が低い」という「負担」が付いてくる。
ラクそうな人間関係を選ぶと、「刺激がない」という「負担」が付いてくる。
ラクそうなダイエットを選ぶを、「体を壊す」という「負担」が付いてくる。

一見「ラクなこと」には、ほぼ間違いなく抽象的で分かりづらい「負担」が付いてくる。
そしてそれは往々にして、努力や鍛錬では乗り越えられないものだ。
「それは難しい」「それは大変だ」というのが口癖の人がいるが、勉強や練習、努力や鍛錬といった「負担」で乗り越えられる程度の苦労なら、それは実に「ラクなこと」なんである。

数年前に、もう消費者金融に行くしかない、とうくらいまでの貧乏をしたことがある。
その時は私財を片っ端から売り飛ばして辛うじて生き延びたのだが、そのお金が無い状態というのは、僕が「ラクそうな」仕事を選ぶことで引き寄せたものであった。

仕事が大変、という状態と、お金がない、という状態では、明らかにお金が無い方がしんどい。
それならば、「大変な仕事をいかに楽しくこなすか」ということに全精力を向けたほうが、結果的に「ラク」なんである。

ところが、時と場合によって、これが逆転することがある。
人はその時々で驚くほどに別人であるから、それは決して矛盾でもなんでもない。
自分の心身を蝕むような大変さのある仕事であれば、多少収入が減ったところで、切り捨ててしまえばいい。

大切なことなので繰り返すが、勉強、練習程度の「負担」で超えられる程度の大変さは、抽象的で分かりづらい「負担」にさらされる大変さと比べると、格段に「ラク」である。
それはつまり、抽象的で正体不明な「負担」にさらされている時は、何かしらの「努力」避けている、ということだ。

人間関係が上手くいかない人は、人に優しくすることを避けているかもしれない。
お金が足りない人は、多少の大変さを飲み込むことを避けているかもしれない。

一見ラクそうなことを選ぶ時は、必ずその背後に抽象的で分かりづらい別の「負担」が待っている。
これを見抜かずして「ラクをしたい」などと言うのは、走らずにサッカーをするようなものだ。
相手は走っているのだから、試合には負けるだろう。
ファンもサポーターも離れていくし、そもそもそんな選手は認められず、試合に出場できない。
走った方が、よっぽどラクだ。

買い物カゴがお菓子でいっぱいになったので、僕はレジを通って宵闇の大阪へと繰り出した。
来訪の度に「何か甘いものはないのか」と訴える彼女様の接待用の菓子類である。
「ないです」と答えることによって被る「負担」を思えば、こうやって身銭を切っている方が、よっぽど「ラク」である。

事務所に戻り、当たり前のような顔をしてたけのこの里を食らう彼女様を見ていると、口元を汚した女が不機嫌そうにこう言った。

「太ったらお前のせいな」

僕は「ラク」な道を選んだが故に、大きな「負担」を被ってしまったのかもしれない。
床にチョコとクッキーのクズが積もってゆく。
やはり、ラクな道を選んでもロクなことがない。