僕は本を読むのが大好きだ。
やらなければならないことが大量にあるために本の虫になろう、ということは難しいのだけど、時間さえあれば一日中でも本を構えて暮らしていたい。
読むものも、最近はビジネス書が多いのだけれど、長編小説からライトノベル、エッセイや古典や自己啓発関係など、様々だ。
そういう風に読書を楽しんでいると、ある日ふと気付くことがある。
どうにも、嫌いな作家というが、やはり僕にもいるらしいということだ。
僕が嫌いな作家第1位は、ダントツで脳科学者の茂木健一郎氏である。
予め言っておくと、僕はテレビなどに出演している茂木氏のことは決して嫌いではない。
ところが本になって読み進めてみると、これが実にイライラとするんである。
どうしてだろう?と思いじっと見つめていると、氏の本は「〜と思う」や「〜ではないだろうか」といった、曖昧な語尾を多用していることに気づかれた。
まるで普段の僕のようだ。
これだ!と膝を打った僕は、そこに自信の嗜好のベクトルを見出した。
主義や主張は、間違っていてもいい。
テキストに起こされて、あまつさえ本などという説得力の高い媒体にされる文章なのだから、断定して欲しいんである。
語尾がぼやけると、主張がぼやける。
結論の輪郭が曖昧になれば、ここで立場の違う人からの反論を受けづらくなるかもしれない。
しかし、僕にとって読書というのは、本の表面上の情報だけではなく著者の人となりや人生観や価値観を想像しながら楽しむものであるから、あるいは、自分にとって必要な情報のみを拾い上げる作業であるから、曖昧な語尾で輪郭を崩されると、これが実に受け取りづらいんである。
・・・例えば今回の僕の主張も、
「語尾を曖昧にすると、受け取る人にとって、なんだかハッキリしないものになってしまうかもしれません」
などと言っていては、実に説得力のない情けない文章になってしまう。
だから、僕個人としては断定的な文章を愛するし、自分でもそのような文章を心がけている。
批判が怖くないのかと言われることもあるが、そもそもテキストというのは万能ではない。
そのことも分からず、著者と自分の立場の違いも理解せず、日々のフラストレーションを発散する機会として振るわれる批判など、相手にするだけ時間の無駄である。
このロクでもない批判を恐れて、一体どれだけの人が本来の実力を発揮せずに死んでいくか分からない。
何かを主張して批判されるのは怖いかもしれない。
しかし、主張をしないでおいたところで、その批判人が自分を養ってくれる訳でも、応援してくれる訳でもない。
彼らは批判の対象を躍起になって探しているだけなのだ。
という訳で僕の主張は以上なのだけど、それもまあ茂木氏のあの文体が好きな人がいるということも十分に理解している。
でなければ、大勢の人が関わる本という媒体(出版の敷居は低くなっているという噂だけど)で発売されるようなことはないだろう。
もちろん、茂木氏の知名度とか、そういうのはあるだろうけれど。
もしかしたら、僕もこの記事で何らかの反論を受けるかもしれない。
しかし、それはもしかしたら僕とあなたの立場の違いや、あなた自身の中に日頃の鬱憤的何某が溜まっているだけかもしれない。
それは本来、別の場所で決着を付けておいた方がいいことだと思う。
だから最後くらいは茂木氏に習い、曖昧な語尾で主張の輪郭をぼかして逃げ出そうと思うのだけど、これで本当に批判を回避できるかどうか分からないかもしれない。