スポーツなどで集中力が最大に高まった瞬間に世界が静寂に包まれて自分の周りや自分自身が完全にコントロールできるようになることを「ゾーンに入る」と言う。
信頼できるソース(黒子のバスケ)からの情報であるから、おそらくそういうものは確実にあるのだろう。
実際僕自身も空手やテニスといったスポーツの中で、そういった感覚を掴んだことが何度かある。
ところが、圧倒的にこの感覚を掴み取れるものが他にある。
音楽である。
慣れ親しんだ曲を息をするように、その時その場の感情はムードを一切拒まずに演奏し始めると、それはまさに中空に浮かぶ譜面を我が身に降ろしているような感覚になる瞬間があるんである。
「この歌詞はこうだから、こう歌わなければならない」だとか、「このブレイクはこうだから、こうキメないとつまんない」とか、そいういう「思考」を一切置き去りにした場所で、実に静かで力強い音楽が鳴り響いている。
周りの人にどう聴こえているのかは分からないが、そうしている時がミュージシャンとして至高の瞬間である。
僕は、もう知ってもらえていると思うのだけど、言葉を扱うのが好きである。
それは文章であれ話し言葉であれ、同じことだ。
人は言葉によって形作られ、言葉によって生きている。
言葉こそ、人の人たる所以であるとさえ思う。
しかし、神の五線譜に触れた瞬間に、人の人たる重要性というのは、実にあっけなく忘れさられる。
歌っているのだから、そこには言葉がある。
しかし、(あくまで僕個人の感覚だけど)本当に音楽に没頭できた瞬間に、口から出て行く言葉はその意味を失う。
それは実に空っぽな、中立的な、明も暗もなく、ただ重心にそっと乗せられて倒れない石のアーチのように、ただただ美しくバランスをとり続けるだけである。
そして、その意味を失った言葉にこそ、意味がある。
それは僕の意思や思考を乗せている時よりも遥かに柔軟に人の胸に滑り込み、新しい形に生まれ変わる。
意味がないからこそ
中立であるからこそ
「愛している」という言葉そのものには意味が無いのと同じように
「愛している」と言う人の中にこそ意味が存在するように
それは僕の僕たる重要性を失うことで、誰かの誰かたる重要性に成りえる・・・とまあ教養のあるようなことを言ってみたが、つまり簡単に言うと、フラットだからいかようにも取れるニュアンスの歌になるのだよワトソン君、ということね。
プレーンなお好み焼きを出しているようなもんである。
ソースやマヨネーズは、自分でお好みの味にしてね、ということだ。
どうしてもソースやマヨネーズに拘りたくなるのだけど、実はみんな好みの調味料を既にもう持っている。
僕は僕自身から「意味」や「思考」と取り除くことで、その人が一番自分好みの味に仕上げられるプレーンなお好み焼きを提供することが、どうやら正解ではないかと睨んでいる。
修練とは、得るための行為ではない。
捨てるための行為だ。
自分が自分だと思っているモノを全て捨てたその先に、本当の自分が居るのだろう。
会いに行かなくちゃあ。