「この人には本音を話したくない」
「もうこれ以上言うことはない」
「そろそろ黙ってくれないかな」
なんてことをね、我々ちょいちょい思うじゃないスか。会話の中で、なんだかウンザリしてきたり、疲れてきちゃったり、悲しくなったりして。
そういう時って結構な確率で、相手に何らか「評価」されてます。低く評価されたり、上から目線で評価されたり、内容は色々。とにかく、こちらが話したり、行動したものに対して、相手が自分の価値観を押し付けてくると、テンションが下がります。
で、そういう時ってテンションと同時に信頼も下がるもので、「ああ、もうこの人には大切なものは見せないようにしよう。だって勝手に評価されちゃうから」という順番で、もれなく心も閉じるというものです。
今すぐ人の行動や意見を評価するのをやめよう
ところで、誰かにそんな気分にされることは思い出せても、誰かをそんな気分にさせたことって、なかなか気付けないものです。
自分は被害者だと思ってたら、知らないうちに加害者もやっていた。自覚がないだけで、僕らはそんなブラックなコントをよくやってます。お恥ずかしながら、僕も身に覚えがあります。たくさんあります。
人の行動や話しにどう反応するかって、実は自分のメンタリティに大きく関わっています。その日の気分や体調でも変わります。僕らはそれくらい不安定な生きものなのです。
だからこそ努力目標として、人の行動や意見を評価しないって、自分に言い聞かせています。難しいんだけど。本当に難しいんだけど、だからこその努力目標です。
人を評価する文化の中にいると、いつか僕らは孤立する
人は多かれ少なかれ、自分のやりたいことを評価された経験があります。「それはいい」「それはよくない」と、自分軸ではなく、他人軸で判断される経験のことです。
そんな英才教育が実を結ぶと、自分がやりたいことではなく、他人(親)によく評価されそうなことを選んで行動するようになります。逆に、自分がやりたいことでも、他人(親)に低く評価されそうなことは、かなり早い段階で着手の候補から外します。
その結果、「なんだか楽しくない」人生を生きることになります。そして、評価されることが当たり前の文化の中で育つと、他人を評価することも当たり前になります。
僕が最強に人を評価しまくっていた時期は、本当に一人でした。僕自身が自分を評価しようとする人から離れたように、僕の周りの人たちも僕から離れていったのです。評価する相手はいない。評価してくる人だけがいる。そういう種類の地獄でした。
人を評価することを「自覚する難しさ」と「我慢できない難しさ」を乗り越える
だからこそ二度と人を評価すまいと自分に言い聞かせています。人を評価しないって、言葉だけ聞くと簡単そうですが、いざやってみようと思うと非常に難しい。
まず、今自分が相手を評価しようとしているという「自覚する難しさ」があります。いかんせん評価の英才教育を受けているので、息をするように人を評価するのです。後から振り返って「あれは評価だったなァ」と冷や汗をかくことが、今でもあります。
そしてもうひとつ、分かっているのに評価することが「我慢できない難しさ」があります。「不安だから」「相手のためだから」「心配だから」「絶対これはおかしいから」「自分を否定されたような気がするから」などなどなどなど、評価が我慢できない理由は星の数ほどあります。
「自覚を持つ難しさ」をクリアするには、「この人の考えを尊重するんだ」というマインドをセットして人と会話をすることが役に立ちます。また、普段の会話の中でちょっとした時に出てくる「小さな評価」を探しておくと、「あぁ、これも評価なんだ」とたくさん気付けます。
「我慢できない難しさ」への対処は、「評価」が人を幸せにすることはないと理解するところから始めます。「評価」って、大元を辿れば「相手を大切にしたい」という愛情表現の形のひとつです。だけど、その表現方法では、相手は一方的に考えを押し付けられたと感じるばかりで、反発されて終わりです。
だから、「評価以外の愛情表現」を覚えて、そっちを使えばいいんですよね。
「評価」ではなく「共感」を選ぶ
ならば、評価する代わりに何をするのか。ズバリ「共感」です。具体的には
- 相手に体を向けて話しを聞く
- 話しを聞いている間、話しを聞く以外のことはしない
- 頷きながら、相手に聞こえるボリュームで相槌を打つ
- 時々「そうなんだ!」「へぇ〜」とも言ってあげる
- 「それってこういうこと?」と、たまに聞き返して自分が間違った受け取り方をしていないか確認する
- 同意を求められたら、「あなたの言いたいことは分かったよ」という意味で「分かるよ」と答える
以上です。
「え?共感ってこれだけ?」
イエス、これだけです。想像してみれば分かります。自分が話し出したら体をこちらに向けて、他のことはせず、深く頷き相槌を打ってくれて、たまに「こういうこと?」と聞き返してくれる。しかも最後に「分かるよ」と添えてくれる。
最高じゃないですか?そんな人が身内にいたら、もう奇跡です。心なんがガパガパ開きっぱなし。その人が何か困ってたら、一肌脱がせろバーロィってなもんです。
話しの聞き手に回る時に役立つ2つの呪文
大切なことなので繰り返しますが、どんなに体を向けて相槌を打っても、最後に相手を「評価」したらそこで終了です。信頼が築かれることはありません。
ですから、最後にここまで記事を読んでくださったあなたに、僕が会話の聞き手に回る時に使っている呪文をシェアします。それは
「この人は大丈夫」
「聞かれてないことには答えない」
です。
相手が何か辛かったことを話してきた時は、一人で持ちきれない気持ちを一緒に支えて欲しいだけ。
相手が何か楽しかったことを話してきた時は、ただはしゃいでいたり、一緒にお祝いをしたいだけ。
相手が何か悩みを話してきた時は、ただ頭の中のモヤモヤを吐き出したいだけ。
そんな相手の気持ちを無視して、信頼を失うリスクを取ってでも伝える価値のある「評価」って何だろう?そんなものはないというのが、僕の考えです。
そしてこれは、自分の中の不安や心の歪みに気付くための呪文でもあります。あなたを話し相手に選んでくれた話し手の気持ちを無視し、信頼を失ってでも言いたいことがあるというのは、それだけの何かが僕たちの中にあるということです。
だから、人と向き合うことは、自分と向き合うこととイコールなんだよねぇ。
今日のまとめ
- 今すぐ人の行動や意見を評価するのをやめよう
- 人を評価する文化の中にいると、いつか僕らは孤立する
- 人を評価することを「自覚する難しさ」と「我慢できない難しさ」を乗り越える
- 「評価」ではなく「共感」を選ぶ
- 話しの聞き手に回る時に役立つ2つの呪文は「この人は大丈夫」と「聞かれてないことには答えない」
ご静聴ありがとん!
コメント
NVCをいかに自然に取り込むか、ですなぁ。(自然になんて、超高難度なことですが/笑)
評価ってチカラですものね。ライスワークにおいては特に。
あらゆることに自分を勘定にいれずに居られるか。
話を聴くときに、それができるようになればステキなんでしょうねぇ。