僕を引き止めていた「イイトコ取りは悪」というメンタルブロック
何だか分からないけれど、生きていたら悪いところも取らなきゃいけないという思い込みが自分の中にありました。「イイトコ取りは悪」の精神です。
僕、実は食べられないものが結構多いんですよ。好き嫌いというか、アレルギーではないんだけど、食べると反射的に嘔吐感が上がってくるもの。
だから子どもの頃よく母から「世界にはごはんが食べられない子どももいるんだから、好き嫌いみたいな贅沢はせずに食べなさい」なんてことをよく言われました。まぁ、そんなこと言われても体が拒絶するものは食べられないんだけど。
で、本来母が伝えたかったこととは別に、僕は関係のない変な思い込みを持ち始めます。そうか、贅沢は悪いことなんだと。
この「贅沢は敵」という考えは僕の中でめきめきと育ち、冒頭お伝えした「イイトコ取りは悪」という哲学を形成しました。
これは非常に巨大なメンタルブロックでした。「イイトコ取りは悪」ということはつまり「ワルイトコ取りは正義」なのです。
僕の無意識に住み着いたこの哲学はかなりの長期間に渡って、「独り勝ちをしてはいけない」とか「ビジネスで成功してはいけない」などと囁き続けてきました。
「イイトコ取りをしてもいい」と信じ直すために、イイトコを取りながら幸せそうに生きている人に会いに行く
言うまでもありませんが、僕に母を責める気持ちは1ミリもありません。きっかけはそうだったかもしれませんが、この考えを選び、育んできたのは、他でもない僕自身なのです。自分の人生の責任は、自分で取るのが粋というものです。
さぁ、僕の目的は、心根深くに染み込んだ「イイトコ取りは悪」という思い込みをキレイさっぱり洗浄し、新たに都合のいい「イイトコ取りしてもいい」というメンタリティを育むことです。
さぁ、あなたならどう取り組みますか?僕はイイトコ取りをしている人に会いに行くという選択をしました。それが、先日記事にした、セミナー講師の本田晃一さんの講演会参加です。
本田さんは僕が知る限り、五本の指に入る「イイトコ取り」の達人です。その講演会も、「日頃僕のブログとか本とか読んでる方、10000円払ってお礼言いにきてよ(笑)」という呼びかけで始まりました。
「なんてロクでもない話しだ!そんな社会の常識も分からないようなバカがまかり通っているのか!」
って、そんな考えが出ていたと思うのですよ、数年前の僕なら。それって、「イイトコ取りは悪」の精神です。自分はこんなに苦労して対価を払って日銭を稼いでいるのに、ヘラヘラ笑いながら金を払って礼を言えというのは、実に詐欺的であるというロジックです。
でも、そう思わなかった。本田さんのメッセージを聞いた時、「素敵!」と思ったのです。思えばその時点で既に、僕のメンタルブロックは外れていたのかもしれません。
そして講演会当日、僕のメンタリティは見事に変容しました。トドメを刺されたと言ってもいいかもしれません。
楽しそうに生き生きとして、かといって誰かに対して精神的なマウントを取るでもなく、明らかに溢れ出るハッピー感。ただそこにいて、はしゃいで、豊かなおじさん。僕が見たかったのは、僕が出会いたかったのは、こういう大人だったんだよと、胸が震えました。
ここにいていい理由を提示し続ける人生をやめると、イイトコ取りができるようになる
人から感謝されるために、何か特別な行動をする必要はない。今年の1月に息子が産まれたのですが、彼を見ているとそれが実感できます。生きて、ただそこにいてくれるだけでいい。たまに笑顔になってくれちゃったりしたら、それだけでパパは幸せです。病気になっちゃったら、万難排してケアをする準備があります。
思えば僕はこれまで、”自分がアウトプットする何か“の価値でだけ、自分の価値を計っていたところがあります。そうじゃなかった。僕もまた、僕の息子のように、生きて、ただここにいるだけで十分周りはハッピーなはずなのです。
じゃあなんで、これまでの在り方に違和感があったのかというと、「生きて、ただここにいる」ということのうち、「ただここにいる」ことが出来ていなかった、ということです。
生後4ヶ月のわが息子は、自分のアウトプットで自分の価値をはかりません。僕や妻から差し出されるものが必要なら受け取るし、必要なければ受け取りません。心地いいことがあれば笑うし、不快なことがあれば泣きます。
ただここにいるって、こういうことです。こういうことが出来ているから、彼は、そして世の純粋な子ども達は、魅力的なのです。
こういうことができているから、「ただここにいる」ことを忘れ、「ここにいていい理由を提示し続けている」人は、純粋な子ども達が妬ましいのです。
時代を乗り越えて、「ただここにいる」ことをやり直そう
悲しいかな、僕たちは赤ん坊だった頃のことを覚えていません。現在アラサーの僕と同年代の人なら分かると思いますが、1980年代後半から90年代前半には、スマホはおろか携帯電話さえまだ普及していなかったのです。
社会的な情報インフラが未整備で、家庭というものが今よりも閉じていた時代を生きてきた僕たちの教養や価値観は、さらに閉じた時代を生きてきた両親や学校の先生たちによって育まれてきました。
夫は滅私奉公せよ。妻は生まれた家を捨て入ったお家に尽くせ。そんな価値観がまだ息づいていたのだなぁと、今更ながらひしひしと感じます。
クラスメイトと比べて大きく凹んでいるところは叩かれ、大きく飛び出しているところも叩かれました。
大人達の抑圧に対応できた子は優等生と呼ばれ、そうでない子は無能、不良と呼ばれました。
オタクという言葉は「趣味嗜好が強く明確な人」という意味ではなく「引きこもりの社会不適合者」という意味で使われていたので、特撮やアニメが好きということを、できるだけ人に知られないように生きてきました。
だ か ら
僕たちは知らないのです。「ただここにいる」ということがどういうことなのかを、覚えていないのです。「ここにいていい理由を提示する」ことをやめずに幸せになろうとするから、途中で破綻するのです。
「ただここにいる」をやってみないと辿り着けない境地に、でも実は誰もが経験しているその境地に立ち戻る。今まで一生懸命まもってきた世の中のルール(だと思い込んでいたもの)を破る。
死ぬほど勇気がいるけれど、死ぬほど楽になります。今まで何をしてたんだろうって、笑えてきます。イイトコを取って、はしゃいで、周りに感謝していれば、それでいいんです。「生きて、ただここにいる」世界って、そういうところです。
だから、もし自分のブロックがどいういうところなのか見えてきたら、そのブロックのない、ステキで幸せそうな人を見つけて、会いにいきましょう。一発で外れることもあれば、長期間かけて外すことになるかもしれないけど、少なくともあなたの人生は、新たな選択肢を得て輝き出すはずです。
今日のまとめ
- 「イイトコ取りは悪」というメンタルブロックが僕を引き止めていた
- 「イイトコ取りをしてもいい」と信じ直すために、イイトコを取りながら幸せそうに生きている人に会いに行く
- ここにいていい理由を提示し続ける人生をやめると、イイトコ取りができるようになる
- 時代を乗り越えて、「ただここにいる」ことをやり直そう
息子様、最近ジブンでちょっとだけ哺乳瓶が持てるようになったんでちゅよ。