茶風林さん演じる新生波平が教えてくれた「キャラクター」と「ストーリー」の同一性。

起き抜けにYouTubeを開いたら早速茶風林さんが演じる新しい声の波平の登場シーンがアップされていたので拝見してきた。流石というか、永井さんが作り上げてきた波平像に寄り添った、素晴らしい演技でありまして。ああこれが、これからの日本のお父さんになってゆくのだなぁという気持ちで、短い映像をぐるりと見渡したのだけど。

映像を見ているうちに、ふと思いふけるものがあった。仮に夕方6時のニュースのニュースキャスターが変わっても、これほどのインパクトを受けることはない。もちろん全く受けない訳ではないが、やはり声優の交代の方が感覚的なズレが大きいように思う。

どうしてなのかを考えてみると、それはやはり「キャラクター」と「ストーリー」の仕業であるように思われた。アニメは、まさにこの「キャラクター」と「ストーリー」の二つの要素を楽しむ作品である。声優はその個人や世界観を広げることを仕事とするのに対し、ニュースキャスターは記事を元に「事実」を的確かつフラットに伝えることを仕事としている。同じ声を扱う仕事であっても、フォーカスを合わせる部分、その業種の持つミッションが、全く異なるのである。

人は魅力的な「キャラクター」と魅力的な「ストーリー」に惹かれる習性を持っている。今回の件に関して言うと、波平の声優が永井さんから茶風林さんに代わったことによって「キャラクター」が代わった、とも言えるのだが、実はそれに伴って、「ストーリー」も代わっているのである。

声のトーンや間の取り方、ちょっとした相づちの文言は、暗にその人物の「ストーリー」を提示する。それまでの波平さんとサザエやカツオの関係性が、そういった所に滲み出るのである。左様、の一言から、我々は波平がサザエやカツオにどのような信念と愛情を持って接しているのかを感じ取っているのだ。「キャラクター」とは「ストーリー」を積み重ねた結果であり、「ストーリー」とは「キャラクター」が関わり合った結果である。これらは観測地点が異なるだけで、本質的には同じものを指す。

つまりなにが言いたいかというと、感傷的な意味ではなく、以前の波平と磯野家は、もう永遠に消滅してしまったということである。そしてそれは、現実の世界にも日々起こり続けている。

戦争を経験した世代は間もなく居なくなる。バブルを経験した世代は間もなくリタイアする。スティーブ・ジョブズが居なくなったように、ビル・ゲイツもいずれ居なくなる。そしてこれを書いている僕もいずれ死ぬし、これを読んでいるあなた自身も死ぬ。

儚く脆い現実に、どのような「キャラクター」と「ストーリー」を刻むのか。きちんと向き合わねばなるまいと、背筋を正した次第だ。

とりあえず、パジャマ着替えてこよう。

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