花見、というほどではないのだけれど、先日昼食を食べに行った帰りに桜の並木の下を少し歩いてきた。僕たちが訪れた時には既に日が陰っていて少々肌寒い陽気(ここで「ようき」と打ち込んで「陽気」よりも先に「妖気」を変換候補に突き出したMacのセンスに驚愕する)であったのだけど、それは見事な桜であった。
ところで、桜というとひとつ思い出されることがある。それは僕が浅草の気ままなキッチンというお店で「気ままな音楽会」というイベントをやっていた時のことだ。僕は当時出演していたテレビ番組にゲストとして出演してくれたマダムおにおんという即興朗読ユニットに出演をお願いしたんである。ちょうど、今ぐらいの時期であった。
その時魔女達は、春であるから、ということで、桜にまつわる詩をいくつも組み合わせて読み聞かせるという構成のパフォーマンスを見せた。それはよくある構成であると後にメンバーである玻瑠さんが語っていたが、サラサラと読み流している桜言葉の合間に、その時の空気の全壊させて、あるいは背景の隙間からこちらを伺うように、またあるいは店内の湿度を高めるようなじっとりとした水気を孕ませて、
「桜の木の下には死体が埋まっているのでございます。」
と連呼する彼女達の姿は、まさに言葉の魔女といった様相であった。抜けないもの。心から。
ということで、僕にとっての桜のイメージは、マダムおにおんに蹂躙され酷くアヴァンギャルドな様相を呈している。この先死ぬまで桜を見る度に、彼女達のことを思い出すのであろう。
桜の木の下には死体が埋まっている。
揺さぶられた感情と脳の間には、3人の魔女の笑顔が挟まっている。
麗らかな春の陽射しに、僕は今年も地面の下の死体と、色あせない表現の感動を想った。
当時の写真。右から、福豆々子さん、玻瑠あつこさん、唐ひづるさん。手前のマリオみたいな人はこの日のもうひとりのゲスト、小林徹也さん。
「いま来た角に」by BlueDok 朗読&アコギフリーセッション
・朗読:唐ひづる(マダムおにおん)