力んで緩んで閉じて開いて

僕は今アレクサンダーテクニークという身体コントロールの技術にとても興味を持っている。これはものすごくかいつまんで言うと、自分の体を持って生まれたデザインの通りに使う、という技術である。そんなものが存在するということはつまり、多くの人が自分の体をデザインの通りに使えていないということだ。かく言う僕も例に漏れず、自分の体をデザインから外れた使い方をしていた人間であった。

2017年の10月の初め、僕は3泊4日のアレクサンダーテクニークのワークに参加してきた。現場は長野県、穂高養生園。厳しさも垣間見えるような北アルプスの中に控えめに整えられたその場所で、僕は十数名の参加者と共に自分と向き合う時間を取った。そこには、こんなルールがあった。

・やりたいことをやりたいようにする。やりたくないことはしない。
・人にお願いしたいことはお願いする。その時に、「断ってもいいよ」という気持ちを添える。
・人がやってくれたことは、その人が「やりたいことなのだ」と理解して、感謝して受け入れる

普段「ねばならぬ」の世界の中で生きている僕にとって、とても新鮮で、どこか懐かしい空気のある現場だった。居心地が良いったらない。ケータイの電波が繋がらないのも良い。日に2回出してくれるマクロビの料理が感動的に美味しい。そんな現場で数日間、地面に転がるサルの糞をかわしながら、僕は自分の体感覚との再会を果たしてきた。

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ひとつ断っておくと、アレクサンダーテクニークは思想を追求する宗教的なものではない。それを広げようとしている人々には当然、通常の企業が持つような理念が通っているが、「テクニーク」と名の付く通り、原則的には身体コントロールの技術である。ただし、人間が自分の体本来のデザインとは”異なる”動作を覚える過程には、必ずと言っていいほど精神的な出来事が関わっている。「腹が立つ」「肩をいからせる」「首をすぼめる」など、体の部位を使って感情の在り方を表現する形容詞が沢山あることからも、フィジカルとメンタルには切り離せない部分があることが分かってもらえると思う。

アレクサンダーテクニークを進めていくと、体を「緩める」ことができるようになってくる。「緩める」ということはつまり、それまでは何らかの理由で「力んでいる」状態がある、ということになる。もちろん、一度緩めると二度と力まない、ということはないから、「緩める」ことが出来た後にまた「力んでいる」状態に移行することになる。ずっと「力んでいる」状態でいることと、一度「緩める」状態から再度「力んでいる」状態に戻ることでは、大きな違いがある。それは、「力んでいる」状態にならざるを得なかった”何らかの理由”に気付けるということだ。

手を握った、膝を曲げた、奥歯を噛みしめた、、、人間はこういった動作を目で確認しなくても感覚で実感できる。その感覚のことを「体感覚」という。この体感覚には、気付きにくいのだけど感情がセットでくっついている。慢性的に首を引っ込めている人には、「首を引っ込めざるを得なかった感情」が必ずあるのだ。

だから一度「緩める」ことができた後、「力むんでいる」状態に戻る瞬間を冷静に観察すると、その動作に紐付けられた「感情」が見える。その結果、講師の方が何も言わなくても、「今思い出したけど、過去に自分にはこんなことがあって・・・」と受講生がぼろぼろと涙をこぼして、自分の感情に気付く、ということが起こるのだ。

この辺り、「こういう考え方が素晴らしい」とか、「こういう発想で生きていくといいよ」といったことを語る人々とは、根本的にアプローチの方針が異なる。もちろん精神的なことを語る人達の中にも素敵な人は大勢いるけれど、アレクサンダーテクニークはあくまで自分で自分に気付いていく、思い出していく、というスタンスである、と、僕は解釈している。そういった理解・視点で記事を書いていくので、共有していただけると嬉しい。

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ワークを終えて里に下りてきた僕が一番驚いたのは、自分はこんなにも沢山のことを感じていたのだ、ということだった。嬉しい、怖い、好き、嫌い、エトセトラエトセトラ。実態の掴めない心という概念ではなく、物体として存在する体が、こんなにも沢山の感情を感じていたことを、僕は知らなかった。

まさに先述の通り、「緩める」ことができた状態を体感覚として感じていたから、そこから「力んでいる」状態への移行が、これも体感覚として感じられることができたということだ。その結果、感情というのは心だけでなく、実感を持った体とワンセットで起こり、感じられるものなのだと、30歳を過ぎてようやく理解したのだった。

それからの感情の渦、渦、渦。悲しかったことを思い出しておいおい泣き尽くす・・・ということは今回はなくて、むしろ溢れてきたのは「好き」の感情だった。歌うことが好き。ギターを弾くことが好き。文章を書くことが好き。妻が好き、職場のボスが好き、友だちが好き、デジタルガジェットが好き、中でもMacが好き、キャンピングカーが好き、絵を描くことが好き、絵を見るのも好き、、、僕はこんなに沢山のモノゴトが好きだったのか、という発見が、数週間止まらなかった。

その結果として、「好きではないもの」も分かるようになってきた。手に持ってもキュンとこないもの。話していてもキュンとこない人。僕に”快”を与えてくれるものと、そうでないものが少しずつ見分けられるようになってきたので、モノゴトの取捨選択がかなり明確になってきた。

それと同時に、自分が好きなものに囲まれた世界を自分で作れるのだ、ということにも気付いた。便利だからという理由だけで持っていたものを手放して、好きなものだけが残るようにしたら、僕の生活空間は見事に広々とした。その結果、「空間はエネルギーだ」ということにも気付いた。この部屋に引っ越してきた時、僕はこの空間で何を成そうか、心からワクワクしていたものだった。空いている空間というのは、エネルギーそのものなのだと、じっくり思い出した。

その結果、その結果、と、ドミノ倒しのように、僕は僕と出会っていった。あんなに無感動で、無反応だと思っていた僕は、実は力強く力んで、必死に感情を伝えようとする体の反応を、比喩ではなく力で抑え込んで、見ないようにしていたのだった。そうしないと、生きていけないと思っていた。人の評価が全てで、自分の評価に価値はないと信じていた。僕の体は、僕が信じた通りに、自分の評価を隠してくれていたのだった。

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たぶん、まだ出会っていない自分、忘れてしまっている自分が大勢いるのだ。悟りは「開く」というけれど、何かが「開く」ためには、一度「閉じて」いないといけないんだなと、とても納得した。勝手に閉じて苦しんで、なんとか開いて喜んで、なんというマッチポンプ。もはやただのコント、遊びである。

そして、たぶん僕たちはその「遊び」をするために生まれてきているのだ。以前何かの本で、「生まれて数年は親の力を借りないと生きられない人間は、成長の過程で必ず親に劣等感を抱くようにできている」という話しを読んだことがある。つまり人間は、必ず一度は「閉じる」。そこから何かが「開く」時、それは実にドラマティックな事件となる。その事件と出会いたくて、僕たちは生まれてきているのではないか。

なんて、いかにも大発見的な気持ちでいたら、開いたノートの上でマルさんがこう言った。



マルさん:当たり前のことに気付いて大騒ぎするな。それはお前、算数で言うと、「”+”は、その前後の数字を”足す”っていう意味なんだ」っちゅーことを覚えたのと同じくらいのことだぞ。

僕:マジで。え、じゃあ、他にも引き算とか掛け算とか、あともしかして因数分解とかなんとか関数みたいな、訳分からん世界もあるってこと?

マルさん:当たり前じゃん。やっと、やっとよ?30年掛かって、やっと足し算を覚えたのよ、お前は。

僕:うええ、無理じゃん、そんなの、一生かけても全部分かんないじゃん。

マルさん:無理に決まってんじゃん。だから俺みたいなのが手伝ってたり、何回も生まれたりしてる訳じゃん。

僕:えええええ、じゃあ、やっぱり僕は何してもダメじゃん

マルさん:だーかーらー、お前遊びに来てるんだってさっき自分で言ってたろ。開くことは楽しいって。だから死ぬまで遊んでりゃいいんだよ。死ぬまで開き続けるの。いちいち落ち込むな。馬鹿なの?馬鹿なの。

僕:聞いた直後に断言しないで。ううん、これは、ホッとしていいのか?w

マルさん:とりあえず足し算の解き方が分かったんだから、足し算を解いてりゃいいの。そのうち引き算問題が出てきたら、その時に今回みたいに引き算のやり方を覚えられるから。

僕:その保証は?

マルさん:そんなもんはない。ないが、「大丈夫」がこの世の法則だ。今までもそうだっただろ。イジメられても、振られても、家の中のモノがどんどん無くなるような貧乏をやっても、今生きててこんなことできてるだろ。大丈夫なんだよ。強いて言うなら、お前の人生が俺の論のエビデンスだ。

僕:またそれかあ・・・で、今回もそれ以上も以下もないんでしょ?

マルさん:当然。これ以下のコトはもう終わった。これ以上のことは今来ても理解できんから、さっさと出てきたいのを堪えて舞台袖で待機中だ。

僕:・・・終わらないねえ・・・

マルさん:だから、お前の短い一生で終わる訳ないんだって。だけど、ひとつずつ開いていったら、フーバー(数年前に無くなった曾祖母。優作の心の支え)みたいな人にはなれる。

僕:マジで!

マルさん:だからお前の心が柔らかいうちに出会ってたんだよ。いいから、まずは足し算。しっかり解いとけ。



マルさんとのやりとりはいつもこんな感じだ。こんな感じで、今回も色々と言いくるめられた。僕が勝手に大騒ぎしたけれど、結局は目の前のことをひとつずつ丁寧にほどいていけ、ということだった。本当に大したことは分からない。どこかで聞いた言葉ばかりである。そんなことをこれからも見つけ続けていくのだろう。

今生ではとても時間が足りないけれど、どうやらそれで良いらしい。ので、ぼちぼちやっていきます。

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