一人でなんとかしようとすると実力が発揮できない

ゆうさく
ゆうさく
台風19号が危ないって投稿がウザくなってきたから万全の準備を整えたのちにそっとツイッターを閉じた。

誰でも持ってる意識の死角

この夏からアレクサンダーテクニークの学校に通い始めている。アレクサンダーテクニークは、僕の認識を一言で言うと「身体を身体本来のデザインに基づいて使うことを考える学問」のようなものだ。もう一言付け足すとすると、「とても二言では説明できない」が加わる。

読まなくてもいいけど、僕が通っている学校のHPにアレクサンダーテクニークの概要を解説したページがあるので、気が向いたらどうぞ。

レッスンは車座に座った受講生たちの疑問や希望に講師が答えていくというスタイルで行われる。受講生の中にはプロの音楽家や音楽指導者、声優、ヨガインストラクター、セラピスト、整体師など、各々の業界で今まさに活躍している人たちの姿も多い。

彼らは、例えば歌を歌う時のちょっとしたピッチの揺れや顎の力み、空気の不足を解消したいといった非常に細かな課題を持ってやってくる。

受講生だって何年も通っている人々なので、関節や筋肉の働きや名称について並々ならぬ知識と理解を持っているし、自分で思いつくことは一通り取り組んでいる。そんな人たちでさえ、自身のサックスを吹く際の指先の違和感や膝の痛みなどを解消できずにいる。

ところが、その動きを一目見た講師はいくつかの質問とアドバイスで、割とどんな問題でも解決してしまう。それは人体うんちゃら工学、あるいは有機なんちゃら生物学の深淵から湧き出る奇跡の賜物ではない。アドバイスを受けている受講生自身が既に知っている、身体のデザインに関する知識によるものだ。

どうして十分な知識を持ち、各領域におけるプロフェッショナルである人々が、自分でなんとかできそうな問題をなんとかできないのか。それは、実は僕たちには意識の死角とも呼べる、自身では知覚が困難な領域があるからだ。

死角の向こうにあるのは、例えばあまりに深く紐付いた「思考と動作」とか

例えば僕がギターを持って歌おうとした瞬間、僕は弾き語りをするために必要なこと″以外″の余計なことをアホほどする。それはその昔師匠に「ヘタクソ!」となじられた時のことを思い出して視線を下げたり、演奏を失敗して「ダサいな」と思われることを想像して身体を緊張させる、といったようなことだ。

こういった動きはもはや達人の域に達していて、自転車と同じように「どうして乗れているのか分からないけどそうなっている」レベルで熟練している。この熟練した思考と動作の連携こそ意識の死角の向こう側の世界である。

外から見ると死角じゃない

意識の死角と言った。誰の意識にとっての死角か。自分の意識にとっての、である。言い換えれば、自分の意識の死角は他人にとっては死角でも何でもない。僕の意識の死角は、あなたにとっては死角ではないのだ。だから、アレクサンダーテクニークなんかやっていないくても、なんか分かっちゃうんである。

誰でも一度は「はーいもっと力抜いてー」なんて身も蓋もないアドバイスをもらったことがあるだろう。僕はこのアドバイスが大嫌いだった。力抜けってお前、じゃあ力の抜き方から教えろよ、といつも腹を立てていた。

大体“もっと”という乗法を要求しておきながら、促しているのは“力を抜く”という減法的行動だ。引くことを乗せろって何だ。数式にすると(−X)×Yじゃないか。成立するわ。ごめん。

人は一人ではやりたいこともできないようにデザインされている

とにかくこの記事で僕が主張したいのは、人には自分一人では決して見ることのできない自分の側面が想像以上に沢山あるのだ、ということである。それは身体や意識の使い方に限らず、あらゆる営みについて言えるように思う。

何かやりたいことや課題を見つけた時、自分一人で何とかしようとすると、それだけであなたの能力は制限を受ける。実力が発揮できなくなる。僕たちが一個人としてのスペックをフルに発揮するためには、他の誰かのサポートが必要不可欠である。なぜなら、僕やあなたには意識の死角があるからだ。

意識の死角の向こう側にはネガティブな思考と動作のセットがある、というようなニュアンスの文章を書いたが、何もそればかりではない。例えば「自分にとっては当たり前で、他人にとっては特殊なスキル」もまた、意識の死角の向こうに隠れているもののひとつだ。

仲間を信頼し深いコミュニケーションを取りながら物事に当たることで、お互いの意識の死角にある欠点を補いつつ得意を発揮できる。人って本当によくできてるなァと、自分で書きながら感動しちゃうのだ。