妻が用意してくれた夕食。お茶碗にごはんと豚の角煮と、それと一緒に作ってくれた大根、にんじん、玉ねぎ、煮卵を入れていただく。
これら全て昨日の昼の段階では食材だったものだ。
米は僕の実家周辺で作られたものだ。僕と同じ空気を吸って育った米だ。日が当たりにくく、田んぼ一枚あたりの面積が稼げない山間で、農家さんが手間暇かけて育ててくれた米を、母が仕入れて仕分けて梱包して送ってくれたものだ。
わが家は今炊飯器が壊れているので、米は全て土鍋で炊いている。一時期は僕も炊くことがあったが、今ではすっかり妻が自分の仕事として引き受けてくれている。僕が炊くよりずっと旨い。
豚肉はアメリカ産だと言っていた。はるか太平洋の彼方で生まれ、人の手で育てられ、命を分けにはるばる日本までやってきてくれたものを、何の縁か妻が手に取ったのだ。
安いだけあって臭いとか固いとか色々言われるが、圧力鍋で出汁と共にゴリゴリに煮込まれ、吹き出た大量の脂を丁寧に取り除いてもらったそれは、唇で触れるだけで解れる繊細な織物のような仕上がりである。
大根とにんじんは、近所の良心市で売られていたものだ。今の家に引っ越してくる前に住んでいたアパートの近所の、山田さんちの野菜である。きれいに泥を取って、痛んだ葉を間引いてくれているから、調理しやすいのだと妻は言う。
山田さんとはたまに顔を合わせると挨拶もするが、何を話してくれても「うぼそそそそそ」と言っているようにしか聞こえない。満足げに大根の肌を撫でる妻はきっと、彼と豊かなコミュニケーションを取っているのだろう。
玉ねぎは近所の業務スーパーで妻が仕入れてくれたものだ。産地までは覚えていないが、確か国産だ。この日本のどこかでどなたかが、ていねいに育てて収穫して出荷して、ここまで運んできてくれたものだ。
卵は最寄駅近くのテナントビルに入っている、イマドキの八百屋さんで僕が買ってきた。普通のスーパーで買うものと品質は同等以上なのに、売値が20円も安い。レジのお姉さんが、一緒に買ったバナナを別の袋にしようかと気遣ってくれたの覚えている。
そしてこれらの食材は、全て妻が手で触れ、切り刻み、味付け、煮込み、盛り付けてくれたものだ。息子の世話と食事の用意で積み上がったやりたいことを横目に、旨くなれ旨くなれと呪詛を唱えつつ仕込んでくれたのだ。
僕のお茶碗には、世界中から集結した数え切れない命と、見知らぬどなたかの仕事、それらを妻束ねる妻の愛が詰まっている。これは豚角煮丼の形をした奇跡だ。僕は毎日そんなものを頂いている。そんなものだけを頂いて生きている。わが人生は、止めどない愛と奇跡の連鎖の最先端である。
だから、楽しみにしていたぼんち揚げを夜中に全部食べられたからって、そんなに落ち込むな。