世界は僕らに愛されたがっている〜偉くない夫が幸せになる方法〜

ゆうさく
ゆうさく
毎朝息子の前でスクワットしてたら、息子が立ち上がる時に「ア”ァ”ァ”ァ”イ”ッ」って奇声を放つようになった。

偉い人は食器や調理道具の洗い物をしない。わが家において洗い物は僕の仕事だ。よって妻は偉く、僕は偉くない。

隙のない三段論法により、わが家における僕の立ち位置が明かになったところで、皿洗いの素晴らしさについて語りたい。僕は皿洗いによって心が救われたと言っても過言でないからだ。

僕は偉くはないが、不幸ではない。奴隷的であるかもしれないが、経済動物ではない。いや、ここはちょっと怪しい。こんな話しをしたいのではない。いいから、先にお進みなさい。

絶対に指を切らない包丁

キッチンの洗い物を間日2〜3回していると、包丁で手を切るリスクも高まる。職業ドライバーはサンデードライバーよりも交通事故に合う確率が高いのと同じ理屈だ。

ところが、ここ2年間ほど、僕は洗い物の最中に指を切っていない。毎日2〜3回の洗い物をしながら2年間指を切らないというのは、そこそこすごいことなのではないかと思う。

このことに気付いたのは、洗い物の最中ふと伸ばした指の先に、包丁の刃の部分が当たった時だった。間違いなく当たったのだけど、皮膚は切れていなかった。ラッキーだった。

ところが、そんなことが短い期間の間に何度も続いた。同じ経験をする度に、ラッキーな気分が高まった。と同時に、どうしてこんなに包丁の刃に指をぶつけておいて、ケガをしないのか、不思議に思えてきた。

そんなことを考えながら日々を過ごしていたら、包丁の刃が指に当たる時と、そうでない時の違いが見えてきた。至極シンプルで、当たり前のことだった。包丁の刃が指に当たる時は、iPhoneやiPadでAmazonビデオを開き、孤独のグルメを流していたのだ。

五郎ちゃんに罪はない。彼は腹が減っているだけなんだ。そうではない。僕は洗い物をしながら、洗い物ではないものに意識を割いていた。そんな日には包丁の刃が、僕の指先をやさしく突いたのだった。

君は茶碗に話しかけているか

僕は話しかけている。もちろん声には出していない。心の中でだ。いや、嘘だ。たまに声に出ちゃってたかもしんない。

日毎夜毎に洗い物をしながら、茶碗や鍋や包丁に話しかける夫がいる妻の気持ちを察すると、いたたまれない。申し訳ないが、そういう性癖なのだ。今のところ精神病院を勧められてはいないから、こういう人物だと認識してくれているか、もう手遅れなのだと諦めているのかのどちらである。

果たして茶碗に何を話しかけているのか。まず、形状に感謝する。白い米のご飯を保持するにベストな形状。唇に優しい縁の厚みとカーブ。素晴らしい。そしてテーブルの上に置いてもガタガタしない。子どもの頃に焼き物で皿を作ったが、何枚焼いてもテーブルの上でガタついて使い物にならなかったものだ。僕の茶碗はすごい。

次に手触りに感謝する。米が触れる部分も指が触れる部分も、しっとりと艶やかなのに、ほどよいグリップがある。この絶妙な質感バランスのおかげで、米はすみやかに箸に乗り、僕は茶碗を落とさない。それだけではない。テーブルに触れる部分だけは仕上げが荒く、グリップが効いている。僕の茶碗はすごい。

次に日ごろの働きに感謝する。茶碗がなければ、土鍋から直接米を食べなければならない。それも楽しそうだが、現代人としてどうかという疑問が残る。米を乗せ、おかずを乗せ、洗われ、乾き、次の食のタイミングを待つ。なんて健気で働き者なのだろう。僕の茶碗はすごい。

最後に、この茶碗を僕の手元に届けてくれた人々に感謝する。実は僕はこの茶碗の出自を知らない。今の会社のボスの実家が引き払うことになった時、使わない食器があるからいらないかと聞かれて、その時にピックアップしたものだからだ。

だから、ボスと、ボスのご両親と、ボスのご両親とこの茶碗をつないだ商売人と、商売人と茶碗をつないだ問屋と、そもそもこの茶碗を作った会社の人に思いをはせる。それだけ多くの人の手に触れられて、運ばれて、この茶碗は僕の手元にいる。僕の茶碗はすごい。

茶碗ひとつに対して、ざっとこれだけ話しかける話題がある。うん、初めて書き出してみたけど、ちょっとこわいです。こわいけど、しょうがない。事実なんだもの。

わたくし自慢のお茶碗

それはたぶんヤキモチ

読者が離脱する気配を感じたので、ちょっとだけファクトベースな雰囲気の話しをする。

作り物の感謝を大量生産しながら皿洗いをするには、指先が茶碗の形や触感を十分に感じている必要がある。茶碗の形や触感を十分に感じるように意識をすると、自ずと身体の動きが穏やかになってくる。気持ちも落ち着いてくるので、食器を適当に積み上げるといった手抜きをしなくなる。

指先の動きがゆっくりで、変な積み上げ方をしない。これが僕の洗い物のデフォルトだ。だから勢い指が包丁の刃に当たっても、動きがゆっくりなので、刃が皮膚を引き裂くに至らない。食器のタワーが崩れることもないので、割れ物が出ない。事実は、たぶんこうだ。

読者の離脱を防いだところで、話しを元に戻そう。

そうやって茶碗に、小皿に、大皿に、包丁に鍋にジップロックコンテナに話しかけ続けていると、彼らとイチャイチャしているような気分になってくる。すごいなあ、素敵だなあ、ありがたいなあ、と呟きながら、蜜月を交わしているのだ。あ、呟いてるって書いちゃった。

だから包丁が僕の指を突く時、それはたぶんヤキモチなのだ。五郎ちゃんに夢中になる僕に、こちらを向いて欲しいとアピールしているのだ。かわいいやつめ。

洗い物は宗教

以前『筋トレが最強のソリューションである』という本を書いたTestosterone氏のTwitterを追いかけていたら、こんな感じの一文が目に入った。

読みながら腹を抱えて笑ったものだが、その通りだと思った。そしてこの理論が通用するのなら、洗い物もまた宗教である。

感謝の洗い物をすると分泌されるセロトニンってホルモンが世の中の問題の99%を自動処理してくれる。目の前に見える食器を、世界中何処でも変わらない奴隷の仕事だけを信じろ。ブレないから精神落ち着くし、キッチンは綺麗になっていくとか最強の宗教だろう。

洗い物は宗教である。今日からこれを常識とします。異論は認めない。

目の前の物事×吟味×感謝で、世界は愛を返してくれる

最後に無駄に話しを大きくして終わります。

僕はもしやと思って、この、目の前の物事を味わい、感謝できることを探し、見つける度にそれを伝えるというフローを、他の仕事にも適用させてみた。掃除、子育て、執筆、筋トレ。その結果何が起こったか。毎日が超楽しいんです。わあ胡散臭い。

正直に申し上げて、このフローが適応できないものもある。僕の場合、数字を扱う作業や関心が向けられないタスク全般が、適応不可である。だから実は、暮らしの全てがこの作戦でクリアできるとは言い切れない。

とはいえ、これまで適当に、さもすれば嫌がりながら取り組んでいた物事に吟味と感謝を自作しながら取り組んでみることは、ぜひお勧めしたい。もはや僕にとって洗い物や掃除は、楽しみですらある。毎日必ずやらなければならないことが楽しみって、だいぶハッピーです。

目の前で起こっている物事を吟味し、感謝できることを探す。これを延々と続ける。どこかで脳がおかしくなって、茶碗を洗うことも便器を素手で磨くこともチワワ達を散歩に連れていくことも、全て愛おしくなる。

吟味し、感謝を探すということを、みんなが知っている言葉で言い換えよう。それは愛するということだ。世界は僕たちに愛されるたがっている。愛すれば愛するほど、世界はさらに素晴らしい愛を返してくれる。

あと、夫という立場に身をやつしている男性諸氏は、できたらこれを奥さんに対してやってみるといい。もう、生きて一緒にいてくれるだけで全部OK!、って感じになるから。心救われます。ぜひどうぞ。

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