国際情勢から見る立場と認識の関係と、僕が長生きするための方法。

先日の安部首相の靖国神社参拝に対し、国外からの非難が凄まじい。ニュースでも囁かれているが、靖国神社には太平洋戦争を先導したとされるA級戦犯者28名のうち14名が、幕末から明治維新にかけての国内外の紛争、及び国のために戦い亡くなった軍人等の戦没者およそ247万人と共に祀られている。この247万人分の14名のA級戦犯者を日本の首相が拝むことが、戦争の被害を被ったのだと認識している韓国や中国の一部の人間から

「過去の罪の肯定」

と捉えられ、昨今よく聞く対日感情の暴走や、一部の過激派の煽りに繋がっているのである。

安部さんの真意は察しようもないが、少なくとも一国の首相まで登り詰めた男が隣国を煽りたいから行きましたデヘヘヘヘ、などというお粗末な感情で動いているとは考えたくない。ここは仮に本人の言葉を信じて、二度と戦争を繰り返さないのだという決意の表明のために参拝をしたのだとしてみよう。そうすると、

「俺、めっちゃ頑張るから。」

と仕事に向かう気合いを注入している安部ちゃんと、

「お前、俺らに迷惑掛けた奴拝んで、やっぱり俺らのこと見下してるやろ」

とビキビキ青筋立てている韓国や中国の過激派のどなたか、という構図が出来上がる。もうお気付きだろう。論点がズレているのである。

このように、人は生き物としての構造は同じでも、その立場によって物の見方や捉え方が変わる。分かりやすいのは男と女だ。男性は女性のことをある種の天変地異の類いのように思っているし、女性は男性のことをいつも目に付くけど面倒だから掃除しないコンロの脇のホコリのように思っている。

例えばこうだ。男性は、自分が買ってきたプリンを食べるのにも女性に断りを入れる。自分がお金を出して買ってきたものであっても、自分に所有権が無いことを理解しているのである。

それに対し女性は、誰に断るでもなくプリンを食べ、その隣りに置いてあるシュークリームも食べ、甘いものが無いから何か買ってこいと平原の羊のように生きている男性に指図をし、他所では「うちのロクデナシがいつも甘いものばかり買ってくるからそれに付き合っていると太ってしょうがない」と愚痴をこぼす。

この時、プリンに対する認識は男性と女性の間で大きく異なる。

男性にとってプリンは

「たまに食べられるとても高価ですごくおいしいもの」

であるのに対し、女性にとっては

「最近ちょっと飽きてきてるからそろそろミルクプリンの方を食べたい感じのもの」

となる。場合によっては

「プリンを食べようというタイミングで豆から挽いた芳醇な香りのコーヒーを入れてくれる岡田准一でない男と付き合っている私はとても不幸だ」

という認識も持ち合わせているから油断ならない。

こういった立場の違いから来る認識のズレや感情の対立というのは、やはりお互いがお互いの立場となり、想像力を働かせて許し合うことでしか乗り越えてゆけないものである。その「優しい想像」という行為が、人はどうにも苦手なのだ。それは当然韓国や中国の対日思想を持つ人だけではなく、テレビやラジオから流れてくる情報のインパクトが強い部分だけを拾って、

「韓国はああだ中国はこうだ」

と在りもしない群れを非難し、差別を具現化し、言葉にせずとも電波させる多くの日本人にも言えることである。歩み寄ることや、分かり合うことは、相手を許すという前提が無ければ成り立たない。そしてそれは、誰よりもまず先に自分自身が胸に抱かねばならないことなのである。

我々はどのような鬼神や邪神の類いに対しても、この優しい想像力を持たねばならない。僕は先日机の角にぶつけてしまったコーヒーカップの欠けた部分を見つめた。何年か前に彼女がクレーンゲームに多額の投資をして手に入れた非売品のカップである。そして彼女の立場になって、想像力を働かせた。

僕は黙っていられる限り、黙り続けておくことにした。

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