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その一瞬の場面を思い出すけれど、前後に記憶のストーリーがないもの。iPhoneのLive Photosのような思い出を、ただただ並べます。
アパートの駐車場
あまりここで遊ぶようなことはなかったのだけど、割と細々としたアパート周辺の町の中では、結構開けていたような印象を持っている。グレーのアスファルトに走る白線と、水色のアパート、青い空のコントラストが、今も思い出されるのです。
模様替え大好き
アパートに住んでいた期間がどれくらいだったかはもう覚えていないのだけど、そんなに長い期間ではなかった気がする。その期間の中で、3回くらい模様替えがあった。。。と思う。模様を変えている間の記憶はないから、子どもたちがいないタイミングで父がものを動かしていたのかもしれない。いつもの部屋で、いつもの家具なのに、いつもの違う風景に変わる模様替えが、とても楽しかった。今ではすっかり模様替え魔です、僕。
上海
パソコンがまだネットなどと繋がっていないスタンドアローンなデバイスだった時代。データのやりとりは、通信などではなく、ましてUSBメモリでもなく、フロッピーディスクなる平たくて四角い某であった。父は決してパソコンに明るい人ではないのだけど、仕事で必要だったからか、昔からわが家にはパソコンやワープロがあったのだ。
当時の山本家にとって、パソコンは完全にオーバースペックなデバイスだったのだろう。少なくとも母はそれまでの仕事でパソコンに触ることなどなかったから、完全にパソコンに対して「よく分からないものは怖い反応」を示していた。当然子どもたちに対しても決して触れてはならぬという法令が出ていたから、あの高い机の上に置かれたクリーム色のテレビのような何かは、実にアンタッチャブルな存在であった。
だから僕が覚えているのは、麻雀の牌を揃えて抜いて行く「上海」というゲームの画面だけである。父もきっと、仕事よりも「上海」をしている時間の方が長かったに違いない。「遙かなるオーガスタ」もよくやってたなあ。ちなみに、間もなく還暦を迎える両親は、最近はもっぱらスマホの「クラッシュキャンディー」にご執心である。
赤いガラスのテーブル
アパートのダイニングには、赤い足にガラスの板を乗せた背の高いテーブルがあった。食事は基本的に床の間で食べていたから、そのテーブルを使った記憶はほとんどない。あ、チョロQを噛む時はよく使ってました。
そのテーブルは今でも実家の倉庫になっている部屋にあって、もう飾られることのない日本人形なんかがのっかっている。日本人形はまあいいとして、1980年代のニュアンスを発するかわいいテーブルなので、そのうちまたどこかで使いたいと思っている。
家の冷蔵庫のパフェがある
薄いピンク色の扉を開くと、中の食べ物の並び方がちょっと違う。ふと視界の端に、青いさわやかな色合いの美味しそうな何かが見えた。たぶん、ラムネのゼリーの上にショートケーキをのせて、緑色の葉っぱとチェリーで飾った、パフェのようなものだ。少し大きめのコップに入っていて、僕はそれを取り出して、母の顔色をうかがった。。。という夢をずっと覚えている。この夢だけ。不思議。今度作ってみよっと。
駄菓子屋の通り
僕は昭和60年生まれだから、今さら気付いたけど、幼年期は和暦が昭和だったんだな。へぇ。で、それはどうでもいいのだけど、住んでいたアパートから少し駅の方に足を伸ばすと、少し車の多い通りに出た。その通りには駄菓子屋があって、1回くらいお菓子を買ってもらったことがあったのかな。まああまり縁のある場所ではなかったのだけど、「広川を渡るな」ということ以外には、「あまり遠くにいくな」という、どうとでも受け取れるルールしかなかった我が家だから、時々気分を変えてその辺りを歩いてみたりした。
よく考えてみたら、ヨウヘイくんやケンサクくんはその辺りにも友だちがいたけれど、僕はいなかったから、やっぱり、僕は外から来た子だったんだろうなあ。昔からその土地に住んでいる人たちと比べたら、町が狭く見えていたのかもしれない。
これこれ。「上海」。知ってる?
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