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わが愛しのAm〜いわゆるライフブログ〜
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おちじーちゃんと、おちばーちゃん
僕の両親は小学校の時からの幼馴染みである。つまり、母の実家と父の実家はとても近いのだ。母の実家の住所が「落合」というところだったから、僕らは母方の祖父母を「落合のじーちゃん」「落合のばーちゃん」を略して、「おちじーちゃん」と「おちばーちゃん」と呼んでいた。単純に物理的な距離が近いから、母方の祖父母ともよく会っていて、だからそれはそれは可愛がってもらっていた。
母の実家は通っていた小学校の正門を出て15秒ほどのところにある。が、母方の祖父母と会っていたのは、そこではない。僕の通学路の途中に祖父母がビシャコという神棚に飾る植物を剪定して出荷する作業をしていた仕事場があったからだ。学校帰り、僕はちょくちょく仕事をしているおちじーちゃんとおちばーちゃんに顔を見せた。おちばーちゃんはニコニコして、薄い緑色の小さな冷蔵庫からチューペットを出してくれたものだった。買い食いが禁止されており、そもそも通学路に自動販売機も売店もなかった僕の地元において、学校と自宅の間におやつを出してくれる優しい祖父母がいるというのは、非常に大きなアドバンテージであった。
久しぶりに仕事場に
少しだけ、その仕事場に思いを巡らせてみる。おちじーちゃん達の仕事場は、周りに何もない県道の急カーブ脇にあった。道路から一段下がったところに建っていたから、茶色い壁よりも青いトタンの屋根がよく目につく。小屋というには大きく、工場というには小ぶりでクリーンな、掴み所のない建物だった。
仕事場に入るには、道路からおもむろにコンクリートを流しただけの簡単な坂道を下る。坂の下を見下ろすと仕事場とは別のガレージがあって、そこに企業の社用車のような味気ない車が停まっていたら、おちじーちゃん達がいて仕事をしているということだ。
坂道を下って右手を向くと、高さ3メートルはある大きな引き戸があって、その時の陽気に合わせて全開になっていたり、締め切りになっていたりする。引き戸の隣りには少し屋根がせり出してきていて、軽トラが停まっていたり、近くの畑で仕事をするための道具が片付けられていたり、玉ねぎが干されたりしていた。
体全部を使って引き戸を開けると、はるか頭上でゴリゴリと鉄の滑車が回っているような感覚が伝わってくる。戸の隙間から少しツンとするようなビシャコの葉と土の匂いが出迎えてくれると、胸の奥から少しワクワクする気持ちと、安心感が一緒になってやってきて、不思議な感覚だった。
中に入るとすぐ右手に2畳ほどの小さな事務所部屋があるのだけれど、事務机と黒電話はいつも暇そうに埃をかぶっていた。おちじーちゃんとおちばーちゃんはたいてい、小さな体育館ほどの広さの仕事場の真ん中で座布団を敷いた黄色いコンテナに座って、ラジオを流しながらビシャコを重ねたり、束ねたりしていた。おちじーちゃんは紺色の帽子をかぶって。おちばーちゃんは、割烹着のような作業着を着ていることが多かったんじゃなかったっけ。
仕事場の奥は、山から採ってきたビシャコが弱らないように、枝の切り口を水に浸しておけるような背の低い水槽になっている。10畳くらいの広さがあったんじゃなかったかしら。その奥には何に使っていたの知らないけれど、大仰な音を立てて開く冷凍室があって、時々頂き物のカニなんかが保管されていた。
さらに奥に進むと、仕事場の建物の外につながる押し戸がある。出るとそこにはニワトリを飼っている小屋が4つほど並んでいて、おちばーちゃんが毎朝卵を回収していた。「割るなよ」と言いながら何回も朝取れの卵を貰ったけれど、はて、あれらは無事に我が家の食卓にたどり着けたのだったか。
「仕事場」という名前の仕事場
はたと気づいたけれど、僕は当時、おちじーちゃんたちの仕事場を「仕事場」という場所なのだと思っていた。名詞だと思っていた。それは間違いではなくて、「仕事場」という名称は家族の間では名詞としてまかり通っていて、それが小さく平和だった在りし日々の愛おしさを、より一層引き立ててくれる。
仕事場があった場所は道路の整備工事があって、今はすっかり風景が変わっている。ちょうど仕事場に行くための坂道があったところに橋が架かっていて、建物は残っていない。かつてガレージだったものが少し改造されて、物置のような何かになっているだけだ。おちじーちゃんもおちばーちゃんも、今は天国でビシャコを重ねたり束ねたりしている。
あの日から今日までの間に、僕が知っているものも知らないものも合わせて色々なドラマがあった。そのドラマに対しては沢山の感情が芽生えるのだけど、もう個人的にはそういうことはどうでもよくって。だって目を閉じて思い描けば、坂道も引き戸もビシャコの香りも、こんな風に今ここに現れるのだもの。
おちじーちゃんが隣りのコンテナに座れとすすめてくれて、おちばーちゃんは「お母ちゃん元気か」と言いながらチューペットを出してくれる。浜村淳の声で喋るラジオが名曲「酒が飲めるぞ」を歌い出し、チューペットがうまく折れずに苦労していると、引き戸の隙間から茶色い猫が音もなく入ってきてビシャコを浸している水を舐める。
僕だけの仕事場は、今もちゃんとここにあるのだぁ。
真ん中でキレイに折るには技術と勢いと運が必用でした。
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